【北条早雲】が基盤を作った「戦国時代」とはどんな時代だったの?最強の武将は誰だ!?

歴史に詳しい人からもそうでない人からも人気の高い時代といえば、戦国時代ではないでしょうか。

下剋上が繰り返され多くの武将が争った時代である戦国時代は北条早雲によって基盤が作られたとされ、北条早雲登場後、日本各地で争いが勃発しました。

しかしそんな多くの人を魅了する戦国時代ですが、戦国時代の時代区分はしっかり定まっておらず、室町時代・安土桃山時代と重なる年代区分でもあるため、少し難しく感じる方もいることでしょう。

そこで今回は戦国時代がどのような時代であったのか、戦国時代最強の武将や逸話、武将となった女性についてご紹介いたします。

戦国時代の始まりと終わり

戦国時代の始まりと終わりについては様々な考えがあるため明確には定められていません。

戦国時代の始まりと考えられる出来事

  • 応仁の乱が始まった応仁元年(1467年)
  • 明応の政変が起きた明応年(1493年)

戦国時代の終わりと考えらる出来事

  • 豊臣秀吉が関と奥羽に惣無事令を発布した天正15年(1587年)
  • 豊臣秀吉による小田原征伐で後北条氏が滅亡し、これによって豊臣秀吉の全国統一が完成された天正18年(1596年)
  • 奥州仕置が完成された天正19年(1591年)

とされています。

戦国時代の始まりと終わりは様々な意見があり、また室町時代・安土桃山時代と重なる年代区分でもあるため

  • 織田信長が戦国大名となり「天下布武」の印を使用し始めた永禄10年(1567年)
  • 関ヶ原合戦が起きた慶長5年(1600年)
  • 豊臣氏が滅亡となった大坂夏の陣が起きた慶長20年(1615年)

が戦国時代の終わりといった見方もあります。

下剋上

戦国時代、征夷大将軍が軍事権を持ち国を統治しており、その征夷大将軍と呼ばれる役職は各国の統治を任されている守護大名に指示を与えていました。

守護大名とは征夷大将軍から指示を受け国の管理を行っており、その役職についた者は「守護代」と呼ばれていました。

しかし争いが増え、いつしかその守護大名に歯向かう者が現れます。この歯向かう者とは守護大名・守護代・国人また公家、低身分など様々な身分の者がいました。

守護大名を倒し自らの国のトップになることは「下剋上」と呼ばれ、守護大名を倒した武士は「戦国大名」と呼ばれることとなります。

戦国時代、身分の低い者が高い地位に成り上がる「下剋上」は当たり前になり日本各地で争いが勃発するようになりました。

戦国武将と戦国大名の違い

「戦国大名」は守護大名を滅ぼした武将のことを指していますが、「戦国武将」との違いはありません。

「戦国武将」とは文字通り、戦国時代に活躍した武将のことを表す言葉であるので、「戦国大名」も「戦国武将」ということとなります。

しかし、「戦国大名」とは自国を支配し、多くの武将を従わせることのできる高い地位を指しているので、一概に同じとは言えません。

例をあげてみると、たくさんの領主となった織田信長は「戦国大名」かつ「戦国武将」。一方で領主となっていない真田幸村は「戦国武将」ということとなります。

北条早雲によって戦国時代の基盤が作られた

一般的に下剋上を行い「戦国大名」となった北条早雲が戦国時代の基盤を作った人物とされています。

北条早雲の肖像画出典画像:Wikipedia

戦国大名の誕生

下剋上が当たり前となった戦国時代各地で戦国大名が誕生しました。

東北における戦国大名の誕生

東北では常陸国の戦国大名・佐竹義重が北関東を拠点に南陸奥、下野に勢力を伸ばしました。これに対し陸奥国と出羽国の一部を支配していた伊達政宗が対抗を見せ始めます。

関東における戦国大名の誕生

応仁の乱が勃発するよりも前に関東では享徳の乱・長享の乱・永正の乱の3つの乱がおきており

  • 古河公方
  • 関東管領山内上杉家
  • 扇谷上杉家

この3つの派閥によって覇権が争われていました。

堀越公方・足利政知が延徳3年(1491年)に亡くなると足利家の中で内紛が勃発しました。これに乗じて北条早雲が伊豆国を手にします。

北条氏は関東管領である上杉氏と衝突を繰り返すも天文15年(1546年)に北条氏が関東を制圧しました。

その後上杉氏は関東管領を長尾景虎(のちの上杉謙信)に譲ることとなります。

この上杉氏と北条氏の争いは全関東の諸豪族を二分化し、結果、各地で戦いを引き起こすこととなりました。

本能寺の変後、甲斐・南信濃を徳川氏が北信濃を上杉氏が、上野を後北条氏、沼田領を真田氏が領することとなります。

しかし、豊臣秀吉の時代に小田原征伐によって後北条氏は滅亡となり、これによって豊臣秀吉による全国統一がなされました。

甲信越地方における戦国大名の誕生

甲信地方では戦国時代に突入するまで国内で抗争状態が続いていました。

しかし武田信虎によって甲斐国は統一され信濃も信仰することとなります。武田信玄の時代には信濃侵攻が本格化されるようになり、結果、信濃は武田信玄の時代で統一されることとなりました。

その後も武田氏は今川氏領国への駿河侵攻も行い、尾張の織田氏、三河の徳川氏も敵に回すこととなります。

天正3年(1575年)に勃発した長篠の戦いで敗北となった武田氏はその後、織田氏の同盟者の徳川家康、北条氏政から領国を攻められることとなり甲州征伐によって武田氏は滅亡となりました。

越後国では天正4年 (1576年)までの間に上杉謙信がほぼ北陸地方を統一しました。

東海地方における戦国大名の誕生

駿河

駿河国では今川氏親が遠江の支配権を斯波氏から奪い、今川氏親の子・今川義元の代では三河国も支配下としていました。

しかし、永禄3年(1560年)桶狭間の戦いにおいて今川家が弱体化すると、徳川氏、武田氏による駿河侵攻を受け滅びることとなります。

美濃

美濃国では、土岐氏の内部争いが勃発しており、その隙をついて斎藤道三が天文11年(1542年)に美濃国を支配します。その後、斎藤道三は尾張の織田信長と対立となり長良川の戦いによって討ち死にとなりました。

尾張

尾張国ではもともと斯波氏が領主となっていましたが、斯波義統の死を最後に尾張守護の斯波氏は断絶となり、以降織田氏が尾張国を支配するようになりました。

織田信長は永禄3年(1560年)桶狭間の戦いにおいて今川義元を討ち、その後、徳川家康と手を結び斎藤道三から美濃国を奪うと、美濃を本拠地とし天下統一に向けて動き出しました。

近畿地方における戦国大名の誕生

戦国時代初期、近畿地方では足利将軍家と管領の細川氏が対立し、抗争が繰り返し行われていました。

しかし、細川氏が内部の権力闘争によって弱体化を見せると近江国の六角氏が足利氏を補佐するといった名目で介入し始めます。

近江

この近江国は北近江の京極氏と南近江の六角氏が対立を見せていましたが、京極氏が支配下にあった浅井氏によって実権を奪われたため、その後は六角氏と浅井氏による抗争が行われるようになりました。

伊賀

伊賀国は忍者を含む小豪族などによる合議制によって支配されていた他に北部を六角氏が南部を北畠氏が支配していたとされています。

紀伊

紀伊国では寺社勢力(高野山・根来寺・熊野三山)の力が強く、守護である畠山氏の支配は限定的なものであったとされています。

伊勢・志摩

伊勢国・志摩国では伊勢の国司である北畠氏が力を持っており、北畠晴具の代に戦国大名となりました。

中国地方における戦国大名の誕生

中国地方では戦国時代初期、大内義興(周防)と尼子経久(出雲)との対立がありましたが、両者は何度が抗戦するものの決着はつかなかったとされています。

両者と接点のあった安芸国においては国人の1人であった毛利元就が統治しはじめ安芸国の戦国大名となりました。

その後、毛利元就は大内氏、尼子氏を突破し中国地方を支配する結果となりました。

四国地方における戦国大名の誕生

阿波国と讃岐国は管領家であある細川氏が支配していました。しかし阿波国は三好氏に実質的に取って代わられます。

伊予

伊予国においては守護の河野氏が中予、伊予宇都宮氏が大洲一帯、西園寺氏が南予を割拠し支配していたおされています。

土佐

土佐国は一条氏が支配していましたが、一条氏の援助を受け再興された長宗我部国親・長宗我部元親が一条氏を追放し長宗我部氏によって土佐国は統一されました。

九州地方における戦国大名の誕生

九州地方は平家方の武家が多かったため鎌倉幕府を開いた源頼朝からの信頼は薄く、鎌倉時代において無名に近い少弐(武藤)氏が筑前・肥前・豊前を、大友氏が筑後・肥後・豊後を、島津氏が薩摩・大隅・日向を支配していました。

しかし、少弐(武藤)氏は大友氏との抗争で破れ、その大友氏は龍造寺氏によって取って代わられることとなりました。

一方で、戦国大名として生き残った島津氏は薩摩・大隅・日向を統一し、残す筑前・豊前の統一に向け動き出しましたが、ほぼ日本統一を成し遂げていた豊臣氏に降伏することとなり、島津氏の九州統一は成し遂げられませんでした。

戦国最強の武将

戦国時代、多くの武将が活躍しました。その中でも強かったとされる武将は

  • 上杉謙信
  • 毛利元就
  • 立花宗茂
  • 本田忠勝

などが挙げられますが、戦国時代最も強かったのは「鬼島津」と恐れられていた島津義弘ではないでしょうか。

島津義弘の逸話

島津義弘の肖像画出典画像:Wikipedia

島津義弘とは戦国時代から安土桃山時代にかけて活躍した薩摩国の武将です。

島津貴久の次男として誕生した島津義弘はもともと豊臣秀吉と対立していましたが、根白坂の戦い以降、豊臣秀吉に従うようになりました。

豊臣秀吉に従い朝廷出兵に参加した島津義弘は、慶長3年(1598年)9月から始まった泗川の戦いにおいて明・朝鮮の20万の大軍に対しわずか7千人の兵力で立ち向かいました。その結果、敵兵3万8,717人を討ち取るといった見事な功績を残しています。

また泗川の戦い以降、島津義弘は敵兵から「鬼島津」と恐れられるようになりました。

その後、主君である豊臣秀吉が亡くなると天下分け目の戦いである「関ヶ原の戦い」が勃発します。この戦いで島津義弘は不本意ながら撤退を余儀なくされることとなりました。

しかし、島津義弘はただ敵に背を向け撤退するのではなく、敵軍を突破し撤退することを考えたのでした。

島津義弘
背を向けて撤退するのではなく、敵軍を突破して撤退するぞ!

この時、島津義弘に立ちはだかる敵軍の兵力は7万であったとされ、この兵力に対し島津義弘が持っていた兵力はたったの300人程でした。

しかし、このわずかな兵力で敵軍を無事突破、戦場から撤退することに成功し、この撤退劇は後に「島津の退き口」と呼ばれるようになります。

わずかな兵力でも勇敢に立ち向かった島津義弘が戦国時代において最強の武将ではないでしょうか。

女性武将の登場

戦国時代、活躍したのは男性武将だけではありません。

  • 井伊直虎
  • 甲斐姫(成田氏長の長女)
  • 立花誾千代(立花宗茂の正室)
  • 義姫(伊達政宗の母)
  • 稲姫(本多忠勝の長女)

など武将として活躍した女性も少なくはありませんでした。

まとめ

戦国時代についてご紹介いたしました。

戦国時代は下剋上が当たり前で力のある武将ならだれでも大名になることが可能な時代でした。

しかし、その時代区分については今も明確にされておらず、人によっては戦国時代の終わりは織田信長が戦国大名となり「天下布武」の印を使用し始めた永禄10年(1567年)頃、はたまた豊臣氏が滅亡となる大坂の陣が勃発した慶長20年(1615年)と考えられることもあります。室町時代・安土桃山時代と重なる時代区分でもあるで、少し難しい時代でもありますね。

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