【杉田玄白】解体新書が原因で前野良沢と喧嘩!?功績やエピソードを学ぼう!

『解体新書』の著者として有名な杉田玄白。

名前を知らないという人は少ないのではないでしょうか。

医師であった杉田玄白はある日、オランダの医学書『ターヘル・アナトミア』を手に入れます。この医学書には細かく人体の解剖図が書いてあり、その忠実さに杉田玄白は驚きます。

その後、杉田玄白は前野良沢や、中川淳庵とともに『ターヘル・アナトミア』の翻訳を開始、開始から4年後の安永3年(1774年)ようやく翻訳は完成し『解体新書』として刊行されました。

刊行された『解体新書』は実は、誤訳も多く、同じく翻訳を行っていた前野良沢は不完全なまま刊行することを不快に思っていたとされています。

それでも日本で初めて本格的な翻訳書として刊行された『解体新書』は医学の発展に貢献することとなりました。

今回は杉田玄白の生い立ちや『解体新書』の内容、前野良沢との関係性や「神経」「軟骨」などの造語についてご紹介いたします。

 

杉田玄白の生い立ち

小浜藩で誕生

杉田玄白は江戸時代にあたる享保18年9月13日に小浜藩(現在の福井県にあった藩)の酒井家のもとで誕生しました。

父は杉田玄甫、母は八尾氏の娘とされています。残念ながら杉田玄白の母親は、出産の際に亡くなったとされています。

杉田玄白には2人の兄がいたとされていますが、長兄は亡くなり、次兄は養子に出ていました。父・杉田甫仙は小浜藩の藩医であったため、藩医は兄が継ぐこととなっていましたが、兄がいなくなってしまったため、杉田玄白が後に藩医を継ぐこととなります。

 

江戸で医学を学ぶ

元文5年(1740年)杉田玄白は家族とともに小浜へと移り住みました。しかし、延享2年(1745年)には父の参勤交代があったため江戸へと移ります。

江戸へと移った杉田玄白はさっそく、家業である医学の勉強を始めました。医学は外科医として江戸幕府に仕えていた西玄哲から、漢学は江戸の本郷に開塾していた儒者・宮瀬竜門から教わったとされています。

 

町医者になる

宝暦2年(1752年)19歳の時、杉田玄白は小浜藩医となります。小浜藩の専属医師となったのです。

その5年後の宝暦7年(1757年)には江戸の日本橋に病院を開き、町医者として活動を始めました。

同年7月、江戸で物産会が開かれます。この物産会を開いたのは本草学者として活躍していた田村元雄、そして医者、発明家、蘭学者など様々な分野で活躍していた平賀源内でした。田村元雄や平賀源内らとの交友はこの頃から始まったとされています。

 

人体解剖に興味を示す

宝暦4年(1754年)、京都で医師の山脇東洋が処刑された死刑囚の人体解剖を行います。この人体解剖は日本で初めて行われた人体解剖で、宝暦9年(1759年)にはその解剖記録が『蔵志』として刊行されました。

『蔵志』画像出典:Wikipedia

 

国内初の人体解剖を知った杉田玄白は

杉田玄白
いつか自分も人体解剖をしてみたい。

と考えるようになります。

この人体解剖は杉田玄白だけではなく多くの医師が興味を示し、医学界に大きな影響を与えることとなりました。

 

江戸幕府の奥医師に

明和2年(1765年)、杉田玄白は江戸幕府に仕える医師となります。

同年、江戸にはオランダ商館長やオランダ通詞らが訪れました。この際、杉田玄白は平賀源内らと、オランダ商館長やオランダ通詞らが宿泊する長崎屋を訪問したとされています。

そこで、杉田玄白らは通訳の西善三郎から

西善三郎
オランダ語を習得するのは難しいよ。

と諭されます。これを受け、杉田玄白はオランダ語を学ぶことを辞めました。

 

家督と家業を継ぐ

明和6年(1769年)、父の杉田玄甫が亡くなります。医師だった父が亡くなったため、杉田玄白は家督と家業を継ぐこととなりました。

 

オランダの医学書『ターヘル・アナトミア』との出会い

明和8年(1771年)、中川淳庵がオランダ商館院から借りたオランダの医学書『ターヘル・アナトミア』を持って杉田玄白のもとを訪れます。

『ターヘル・アナトミア』とは

『ターヘル・アナトミア』とはドイツ人の医師ヨーハン・アーダム・クルムスが記した解剖学書です。

杉田玄白はオランダ語が読めなかったものの、『ターヘル・アナトミア』に記されている精密な解剖図に感動し、藩に相談し、この『ターヘル・アナトミア』を購入しました。

 

『ターヘル・アナトミア』に書かれている図と同じだ!

『ターヘル・アナトミア』を手に入れた年、偶然にも江戸の千寿骨ヶ原で死体の解剖が行われていました。杉田玄白はさっそく前野良沢や、中川淳庵とともにその解剖を見に行きます。

前野良沢はなんと杉田玄白と同じく『ターヘル・アナトミア』を手に入れていました。2人は人体解剖を見て

杉田玄白・前野良沢
『ターヘル・アナトミア』に書かれている図と同じだ!

と驚きます。

それと同時に、今まで体の中身を知らないのに病気や怪我を治そうとしていたのか…。とショックを受けました。

 

『ターヘル・アナトミア』を日本語訳に…『解体新書』の完成

『ターヘル・アナトミア』の正確さを知った杉田玄白、前野良沢、中川淳庵は『ターヘル・アナトミア』を翻訳しようと決意します。

しかし、前野良沢が少しオランダ語を読める程度で、3人ともオランダ語を書くこともできなければ、話すこともできません。また当時は満足な辞書もないため、翻訳は難航しました。

ですが、杉田玄白らは必ずこの『ターヘル・アナトミア』は役に立つと信じ、翻訳を進め、安永3年(1774年)ようやく翻訳が完成します。

この日本語訳された『ターヘル・アナトミア』は『解体新書』と名をつけられ刊行されました。

 

前野良沢との関係性、『解体新書』を巡る前野良沢との対立

刊行された『解体新書』は訳文に不完全なものがまだありました。しかし杉田玄白が

杉田玄白
私は病気も多く、いつ死ぬか分からないから…

と刊行を急いだため、不完全なまま刊行されたのでした。

これに対し、同じく翻訳をしていた前野良沢は不快を示していたとされています。

前野良沢はしっかり翻訳されたものを刊行したかったのでしょう。

そのため、学究肌の前野良沢は『解体新書』の著者として名前を出すことを拒んだとされています。

前野良沢
不完全な翻訳書だから、名前を出すのはやめておくよ…

刊行された『解体新書』は杉田玄白の友人で、江戸幕府の医師であった桂川甫三が将軍に献上しました。

前野良沢画像出典:Wikipedia

 

『解体新書』の内容と刊行後の影響

内容

『解体新書』は『ターヘル・アナトミア』を日本語訳したものでしたが、他にも

  • 『トンミュス解体書』
  • 『ブランカール解体書』
  • 『カスパル解体書』
  • 『コイテル解体書』
  • 『アンブル外科書解体篇』
  • 『ヘスリンキース解体書』
  • 『パルヘイン解体書』
  • 『バルシトス解体書』
  • 『ミスケル解体書』

などの医学書を参考にしたとされています。

 

『解体新書』は4巻と図1冊にまとめられています。

  • 巻の一には総論、形態・名称、体の要素、骨格・関節など
  • 巻の二には頭、口、脳・神経、眼、耳、鼻、舌
  • 巻の三には胸・隔膜、肺、心臓、動脈、静脈、門脈、腹、腸・胃、腸間膜・乳糜管、膵臓
  • 巻の四には脾臓、肝臓・胆嚢、腎臓・膀胱、生殖器、妊娠、筋肉

が記されています。

画像出典:Wikipedia

 

刊行後の影響

翻訳された『解体新書』は日本の医学を発展させることとなりました。

現在でも使用されることのある「神経」「軟骨」「動脈」「処女膜」といった用語は翻訳の際に、杉田玄白らが作った言葉とされています。

 

私塾を開く

安永5年(1776年)杉田玄白は藩の中屋敷を出て、竹本藤兵衛から土地を借り、そこで開業します。また開業とともに医学塾「天真楼」を開きました。

杉田玄白の腕は評判が良く、儒学者の柴野栗山は

柴野栗山
「杉田玄白事は、当時江戸一番の上手にて御座候。是へまかせ置き候へば、少も気遣は無之候」(杉田玄白は江戸で1番の腕前である、任せておけばよい)

と書き記しています。

 

『蘭学事始』を執筆

杉田玄白は晩年、回想録として『蘭学事始』を執筆しました。

この『蘭学事始』にはオランダ医学書『ターヘル・アナトミア』の翻訳に至った経緯、翻訳に関するエピソードなどが記されています。『蘭学事始』は後の明治2年(1869年)、福沢諭吉らによって刊行されました。

明治2年(1869年)に刊行された『蘭学事始』画像出典:Wikipedia

文化2年(1805年)には江戸幕府11代将軍・徳川家斉が体調を崩した際に薬を献上しました。

 

杉田玄白の最期

文化4年(1807年)家督を子供の伯元に譲り、杉田玄白は隠居生活を開始します。その10年後の文化14年(1817年)、83歳で亡くなりました。

 

まとめ

簡単にまとめると

  • 享保18年(1733年)、医師の息子として誕生
  • 宝暦7年(1757年)、江戸で町医者になる
  • 明和2年(1765年)、江戸幕府の奥医師になる
  • 明和8年(1771年)、『ターヘル・アナトミア』と出会い、翻訳を開始
  • 安永3年(1774年)、『ターヘル・アナトミア』の翻訳完成、『解体新書』として刊行
  •           『解体新書』を巡って前野良沢と対立
  • 文化4年(1807年)、家督を譲り隠居
  • 文化14年(1817年)、83歳で亡くなる

杉田玄白は日本の医学に大きく貢献した人物でした。

現在使用されている「神経」「軟骨」「動脈」「処女膜」といった用語も実は杉田玄白が作ったものだったのですね。

以上、杉田玄白の生い立ちや『解体新書』の内容、前野良沢との関係性についてのご紹介でした。