「承平天慶の乱」の主役【海賊・藤原純友】とは?「藤原純友の乱」や平将門との関係についても

海賊、といえばどんな姿を想像しますか?パイレーツオブカリビアン?バイキング?日本にも実は海賊はいたんです。この記事で紹介する藤原純友は、平安時代に藤原純友の乱を起こし、朝廷に刃向かった海賊なのです。もともと純友は、藤原氏の中でもっとも栄えた藤原北家の出身です。しかし、都では出世できずに、地方の役人になりました。父親を早くに亡くしたために、後ろ盾となってくれる人がいなかった、と言われています。華麗な一族の中で、だいぶ違う道を歩いた純友ですが、どんな経緯で海賊になったのでしょうか?

そして藤原純友の乱と同時期に、平将門が反乱を起こしています。この2つの乱を承平天慶の乱と言います。この2人の乱に何か関係はあったのでしょうか?そしてこういう乱を起こした他の歴史上の人物と同様に、神社などに祭られているのでしょうか?

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地方役人から海賊に

江戸時代に描かれた藤原純友

出典:Wekipedia

都での出世を諦めた純友ですが、父のいとこである藤原元名によって、地方の役職をもらいます。藤原元名が伊予守(現在では愛媛県の知事に相当する役職)を命じられ、純友はその元名の下で、瀬戸内海の海賊を鎮圧する役目を与えられます。しかし、海賊の取り締まりをしているうちに、いつの間にか海賊のリーダーになってしまいます。当時の貴族は、何らかの理由で出世できなかった場合は地方に行く人が多かったようです。そこで盗賊、海賊などを鎮めることで手柄を立てると、褒美として出世ができると考えた貴族がいました。

しかし、手柄を自分の上司に横取りされる事が多く、不平がたまっていました。褒美を横取りされるなら、いっそのこと自分が海賊になって略奪した方が財産はたまる、と考えた貴族は多かったようです。そんな貴族出身者達をまとめ、一つの軍団を作って海賊行為を行ったのが純友ではないかと言われています。当然、海賊を取り締まっているときに海賊と知り合い、関係を結んだこともあるでしょう。純友の海賊集団は大きくなり、1000艘の船を持つ強力な武装集団となっていきました。

朝廷への反逆

藤原純友が活動した瀬戸内海

出典:Wikipedia

そして純友は、備前介(現在では岡山県の知事に相当する役職)と播磨介(兵庫県の知事に相当する役職)を襲撃します。明かな朝廷への反逆です。


同じ頃、平将門が関東を支配しました。朝廷は、東の平将門、西の藤原純友と、両面作戦をしなければならなくなりました。
朝廷は焦りました。もしかすると、純友と将門が相談して同時に反乱を起こしたのではないか、と考えました。そしてまずは関東に兵を集中させ、純友には官位を与えて懐柔しようとしました。純友は官位は受けましたが、戦闘行為をやめることはありませんでした。淡路島の朝廷の武器庫を襲って武器を奪います。

さらに、現在の京都府と大阪府の境にある山崎を焼き払います。純友が海賊だけでなく、盗賊も支配下においていることが明らかとなり、朝廷はさらに動揺します。

朝廷の反撃

平安京の近くにまで純友の影響が及ぶことに危機感を抱いた朝廷は、将門討伐を急ぎます。朝廷にとって幸運だったのは、朝廷軍が関東に到着する前に、身内である平貞盛と藤原秀郷が将門を滅ぼしたことです。東に向かった朝廷軍はすぐに都に戻り、純友討伐の準備を始めます。危険を感じた純友は、いったん本拠地の日振島(愛媛県)まで撤退します。勢いに乗って朝廷軍は純友を討伐しようとしますが、純友は瀬戸内海で次々と朝廷軍を破ります。しかし、純友軍の幹部が朝廷に寝返り、状況は一変します。

純友の根拠地である日振島が朝廷軍に奇襲され、純友軍は九州方面へ逃走します。そして太宰府を占領し、ここで朝廷軍を迎え撃ちます。

瀬戸内海には大きな島から小さな島まで、あわせると約3000の島があります。ここから純友の本拠地を探し出すには、純友軍内部の情報がないととても探すことができません。

陸と海から同時に攻められた純友軍は大敗します。純友は逃走中に討たれたとも、捕まって牢屋の中で亡くなったとも言われています。詳しいことはわかっていません。平将門の乱は2ヶ月で鎮圧されましたが、藤原純友の乱は、鎮圧に2年間を要しました。純友は現在、岡山県の純友神社、愛媛県の中野神社に祭られています。

平将門との関係(承平天慶の乱について)

藤原純友の乱は、平将門の乱とほぼ同時に起きました(承平天慶の乱)。そのため、2人が計画して乱を起こしたのではないかと言われていました。比叡山には、将門岩という岩があり、ここで純友と将門が反乱の相談をしたという伝説が残っています。しかし、実際は将門は関東、純友は瀬戸内海にいたため、京のそばにある比叡山で相談は不可能ではないかと言われています。

では、関係が全くないかと言われるとそうでもありません。将門が襲撃して関東から追い出した上野介、藤原尚範は純友の叔父であり、純友になんらかの影響を与えた可能性は否定できない、と言われています。

武家が力を持ち始める

承平天慶の乱によって、武力集団に対して朝廷はすぐに対応するのが難しく、朝廷が持つ兵では心許ないことが明らかになりました。その結果、これらの乱を鎮圧した人々が少しずつ重んじられるようになります。彼らの多くが、後に力を持つ武家の源流となります。

この乱には、平氏、源氏、藤原氏という、後の武家につながる家の人達が関わっています。戦国大名の中には、自らを藤原純友の血を引く者と公言する者もいたそうです。

藤原純友も平将門も鎮圧はされましたが、後の源氏、平氏の台頭と、武力を持つ者が権力を持つ事への道筋をつけたと言ってもいいと思います。

 

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