聖武天皇と聞くと、奈良にある東大寺に、あの日本一大きい仏像を作った天皇として有名です。聖武天皇は、反乱や災害に悩まされ、政治を行うには難しい時代であられました。聖武天皇は仏教を信仰していたので、この荒れた日本国土を鎮めようと、各地に寺を建てます。
奈良県に東大寺を建て、大仏を作りたいと、協力を煽ったのが行基です。行基のおかげで大仏は見事完成し、聖武天皇は大仏を見届け5年後には亡くなってしまいます。これから聖武天皇の生涯でした功績と、奈良の大仏について詳しく記事にしていきます。
目次
誕生してから天皇即位までの流れ
誕生から皇太子まで
奈良時代701年に 文武天皇と藤原宮古の長男 として産まれます。即位前は首皇子という名です。

707年に父である文武天皇が亡くなってしまいます。714年に皇太子になります。その時の政治は 藤原不比等 や 長屋王 が担当していました。その後藤原不比等は亡くなってしまいます。
723年、首皇子の最初の政治の功績は、人口増加に伴い食糧不足に悩み、農地を開墾し食糧不足や財政を立て直す為、
(新しく切り開いた土地は、切り開いた本人と子ども、孫の三代まで自分の物になる法律)
聖武天皇になるまでの流れ


その時代、後継者問題で壬申の乱が起きたばかりでしたので、後継者争いを避けたいので後継者問題には一段と注意を払っていました。聖武天皇が即位に就くまで、祖母である元明天皇が中継ぎの天皇として即位し、その後、叔母にあたる元正天皇が中継ぎの中継ぎで即位します。
そのあと聖武天皇が724年、24歳の時に即位しました。
聖武天皇になり起きた出来事
信頼している長屋王の自殺

藤原氏は藤原不比等の娘、光明子を后にしたがっていましたが、皇后は中継ぎの天皇になる可能性があるので、皇族しか后になれないという習慣があり、政治担当の 長屋王は光明子を后にするのを反対しました。
政治担当の補佐をしていた藤原不比等の息子4人に、長屋王は権力争いに敗れ、自殺をしてしまいます。これが 長屋王の変 と呼ばれています。
聖武天皇は、ずっとお世話をしてくれた長屋王が亡くなったことをとても悲しんでいました。反対する長屋王が亡くなったので、光明子は聖武天皇の后になることが出来ました。
天然痘(ペスト)大流行
737年、国土に 天然痘(ペスト)が大流行 します。

そのペストで、国民も大勢亡くなり、そして政治担当だった藤原4兄弟も亡くなってしまいます。それにより、橘氏・大伴氏・藤原氏の貴族の争いが大きくなっていきます。世の中は、病で死人がでて、貴族の争いも起き、とても荒れていました。
藤原広嗣の乱

740年に 藤原広嗣 が藤原の勢力後退し政権への不満から、赴任先の九州地方の太宰府で内乱を起こしました。官軍が勝利し鎮圧されましたが、身内の反乱に聖武天皇はショックを受けてしまいます。
聖武天皇の功績
約60ヶ所に寺を建設する
この内乱の最中に聖武天皇は745年まで平城京出て各地転々とします。即位されてから、長屋王の死、天然痘の大流行で国全体が荒れ、貴族抗争や内乱が起き、聖武天皇自身も辛さと悲しみで胸を痛めていました。

東大寺と大仏の建設を計画
遷都から平城京に帰る
国分寺、国分尼寺の建設は農民が行います。建設はすごく重労働のうえ、租庸調の税も払わなければならない農民は、心身共に限界でした。建てるお寺が多ければ多いほど、農民たちを苦しめてしまっていることに聖武天皇は気付きませんでした。幾度の遷都で国民から不満があがり、奈良の平城京に帰ってきます。
聖武天皇は遷都が出来ない為、約60ヶ所ある国分寺の中心の総国分寺として東大寺を設立し、東大寺に大仏を建てることにしました。
行基に助けてもらう
東大寺と大仏の建設となると、とても重労働になり、国民の反発が強くなります。そうならないように、民衆に絶大な支持を受けている行基を大僧正として迎え、農民達に協力してもらえるよう助けてほしいと頼み、農民達の協力を得られることになりました。
墾田永年私財法発令
聖武天皇は、財政難や農民の食糧不足を緩和するために、 墾田永年私財法 を出します。今までは3世帯まででしたが、新しく切り開いた土地は永遠に自分の物と出来るとした法律を出します。それにより、資本のある貴族や大寺院が地方諸国に新しい土地を開墾し始め、私有地を増やし勢力を強めて行きました。公地公民制の崩壊につながり、天皇の力が弱くなっていきます。
奈良の大仏が完成
749年に聖武天皇は娘に生前譲位し、孝謙天皇と名乗ります。それまで男性の天皇が生前譲位したことはありません。

ついに752年 東大寺の大仏 が完成しました。その後756年に聖武天皇は功績を残し、亡くなります。
まとめ
いかがでしたか?聖武天皇になった時の情勢は本当に荒れていました。信頼していた長屋王の死、天然痘の流行で身近な人や国民が大勢死んでしまい、身内の反乱があり、自然災害が続きます。これほど、国土が荒れた時代も珍しく、聖武天皇は不運な時に即位して、とても苦労されながら功績を残して行きました。
仏像の大きさについて色々と説はありますが、”この世の中が平和に安定してほしいと願い、国全体を守るのだから”と、とても大きい仏像を建てられたのだと思います。