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聖武天皇がしたことで一番有名なのは、東大寺の奈良の大仏を建設したことです。なぜ大仏を立てたかというと、聖武天皇が即位した時からずっと、世の中はとても荒れていました。貴族同志の反乱、また身内の内乱に加え、自然災害が頻繁に起き、地震や火山噴火とそしてペストや天然痘が大流行します。そのせいで、身内や沢山の国民が亡くなり、政治も財政難となり、荒れて果ててしまいます。聖武天皇は仏教を帰依していたので、仏教の力で、国を立て直そうと各地に国分寺、国分尼寺を建て、遷都を繰り返していました。
これからこの記事で、聖武天皇がしたことと、東大寺や各地に立てた寺、国分寺・国分尼寺と遷都について書いていきます。
聖武天皇が遷都する事になった背景
聖武天皇が即位してから遷都するまでに、起きた出来事は以下の通りです。
- 長屋王の変
- 天然痘・ペストの大流行
- 貴族同士に反乱
- 藤原広嗣の乱
- 災害
このように、聖武天皇には沢山の困難がめぐってきます。信頼していた長屋王の死や、天然痘・ペストの大流行で身内や国民も大勢亡くなってしまいます。そんな世の中が荒れている時に貴族同士の反乱があったり、身内の藤原広嗣が内乱を起こし、困難続きです。
なぜ聖武天皇は遷都を繰り返し行うようになったかは未だ解明されていません。諸説によると、聖武天皇は、
ここまで荒れた世の中に、聖武天皇も何が悪いのか色々と模索してしまいます。
聖武天皇がしたこと
遷都の変遷
聖武天皇行った遷都変遷を順番に紹介していきます。遷都変遷の順番は
恭仁京
現在の京都府木津川市に位置する、奈良時代の都城の一つです。聖武天皇が740年、一番最初の遷都先になりました。その理由は、当時右大臣の橘諸兄の本拠地だからと言われています。
741年11月には、恭仁京の正式名称を 大養徳恭仁大宮 と決定し、平城京から、朝廷の正殿の大極殿を移しました。この大極殿と同時に紫香楽宮を建設していたので、金銭面が難しくなり、わずか4年で次の難波宮に変遷します。
難波宮

現在の大阪府中央区に位置していて、難波長柄豊碕宮と同じ場所です。744年に難波宮に遷都しましたが、わずか1年の滞在で変遷します。説によると、紫香楽宮の完成までの一時しのぎだったのではないかと言われています。そして聖武天皇は、紫香楽宮へ遷都します。
紫香楽宮

現在の滋賀県甲賀市に紫香楽宮があります。この紫香楽宮に聖武天皇は、盧舎那仏を 奈良の大仏として当初建設しようと計画 をしていました。前もって建設していたので離宮や大仏が作られていましたが、また災害が起きてしまいます。肥後や美濃で地震など震災が起こり、寺院の設立や頻繁な遷都で多大なお金を費やしています。このひどい財政難と労働が過酷な為、農民が苦しみ、聖武天皇への反発がとても大きくなりました。香楽宮の滞在は、遷都してわずか4ヶ月で、聖武天皇は平城京へ戻ります。
各地に国分寺・国分尼寺を設立
聖武天皇は、日本国土を仏教の力で治めようと、その国(現在で言うと、県)毎に、 国分寺・国分尼寺 を建てるように命令を出しました。
奈良にある、 東大寺・法華寺 は総国分寺・総国分尼寺として、全国の国分寺・国分尼寺の総本山とされています。この国分寺・国分尼寺は、北陸・中部地方から、近畿・中国・四国・九州地方まで 約60ヶ所 に、沢山設立されています。
東大寺・大仏を設立
平城京に戻ってきた聖武天皇は、奈良に 東大寺 とそこにあの有名な 奈良の大仏を設立 します。
行基 のおかげで民衆の力を得られ、大仏に着手したのは747年頃で、751年に完成します。翌年には開眼供養という、仏様に眼を施し、魂を入れる供養を1万人の民衆とともに行い、無事完成しました。あの大きな仏様にしたのは、日本国内全てを守る仏様だから一番大きな仏様を造ったのではないかと言われています。奈良の大仏が完成した時は、聖武天皇は、考謙天皇に譲位しています。その後、天皇の力が衰弱し、公地公民制は崩壊していきます。
まとめ
いかがでしたか??聖武天皇がとても苦労されたことが伺えます。聖武天皇が即位してから国土が反乱・内乱と天然痘・ペストや大災害の連続で、多くの人が亡くなり、財政難になり、国は荒れ果てていました。もう自分の力ではどうにもならないと仏教で国を安穏させようと国分寺を各地に建てさせ、遷都をしだしました。
聖武天皇は国を良くしようとしていたのに、変遷するために働くのは農民達で、逆に苦しめてしまうという結果になってしまいます。聖武天皇は最後に、日本全体を見渡せて、国土を守る仏様を建てたいとあの大仏を建てました。
しかし、大仏を建てても、天皇の力は弱まっていってしまいますが、この苦難の連続と聖武天皇が、国を仏の力で救おうと考えたおかげで、あの大仏が建てられ、私たちも歴史を学ぶことが出来ました。
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