【聖徳太子】は実在していなかったって本当!?教科書から姿を消すの?その理由を探ります

冠位十二階や十七条憲法を定めた人物として有名な聖徳太子。多くの方が、小学校の授業で習ったのではないでしょうか。聖徳太子の肖像は一万円札の肖像として使用されていたたことがあるので、日本人なら知らない人はいないといっても過言ではありません。

実は「聖徳太子」という名前は聖徳太子の死後につけられた名前であるということをご存知でしょうか。そのため現在、多くの学生が日本史の教科書として使用している山川出版社の『詳説日本史』では、
14年(2002年)から聖徳太子のことを本名である「厩戸王」と記載するようになりました。しかし、多くの功績を残した聖徳太子でしたが研究が進むにつれ、聖徳太子は多くの政策に関わっていなかった、また実在していなかったのでは?という聖徳太子虚構説が登場します。

そんな聖徳太子の生涯や実在しなかったとされる聖徳太子虚構説について探ってみたいと思います。

聖徳太子の生涯について

聖徳太子という名称

多くの方が小学校の授業で「聖徳太子」について習ったかと思います。しかし、実は「聖徳太子」という名前は聖徳太子が生きていたころに使用されていた名前ではなく、聖徳太子が亡くなった129年後の天平勝宝3年(751年)頃につけられた名前でした。

天平勝宝3年(751年)に編纂された『懐風藻』が「聖徳太子」の初出とされています。

聖徳太子が生きていた時は「聖徳太子」と呼ばれていたのではなく「厩戸皇子」と呼ばれていたとされています。

聖徳太子の誕生

 

聖徳太子がいつ、どこで誰から誕生したのか、明確には分かっておらず、様々な聖徳太子の誕生に関する伝説があります。しかし『日本書紀』によると、聖徳太子は敏達天皇3年(574年)、母・穴穂部間人皇女と父・橘豊日皇子の息子として誕生したとされています。父・橘豊日皇子は実母は蘇我稲目の娘・堅塩媛とされ、また母・穴穂部間人皇女の実母も蘇我稲目の娘・小姉君であるとされているため、
聖徳太子は生まれながらにして蘇我氏と非常に強い繋がりを持っていました。

『日本書紀』には記載されていませんが、聖徳太子が誕生したのは馬や牛などの家畜が飼われている小屋の中(厩戸)の中で誕生したと伝えられています。このような伝説から、聖徳太子は「厩戸(うまやど)」という名前がつけられました。

一方で、母・穴穂部間人皇女が叔父・蘇我馬子の家で聖徳太子を出産したのにちなんで「厩戸(うまやど)」と名付けられたという言い伝えも存在しています。このように聖徳太子の誕生や、「厩戸(うまやど)」と命名された理由については様々な説が存在しています。

『日本書紀』による聖徳太子の経歴

聖徳太子の主な経歴は『日本書紀』から読み解くことができます。『日本書紀』によると、聖徳太子の父・橘豊日皇子は用明天皇元年(585年)先の天皇である敏達天皇が崩御したため即位することとなりました。(用明天皇)

しかし、このこの頃から、神様を敬い仏を崇拝する崇仏派の蘇我馬子と、中国から日本に伝来した仏教に対し拒否反応を示していた廃仏派の物部守屋が仏教の受容を巡り、対立するようになっていたとされています。

そんな中、父・用明天皇が用明天皇2年(587年)、崩御します。そのため次期天皇として

  • 蘇我馬子は用明天皇の異母弟である崇峻天皇を
  • 物部守屋は用明天皇の同母兄である穴穂部皇子を

即位させようとし、対立関係は悪化となりました。皇位継承問題は武力衝突までに発展し、穴穂部皇子は蘇我馬子によって殺害される結果となり、最終的に次期天皇となったのは、父・用明天皇の異母弟である崇峻天皇でした。

こうして蘇我馬子に推薦され天皇となった崇峻天皇でしたが、政治主導権を握ったには蘇我馬子であったため、
次第に蘇我馬子と崇峻天皇は対立関係となり崇峻天皇5年(592年)、崇峻天皇は暗殺されてしまいます。

その後、蘇我馬子は豊御食炊屋姫を擁立し皇位につけると、欽明天皇15年(554年)初の女帝となる推古天皇が即位することとなりました。聖徳太子は、蘇我馬子とともに日本初となった女帝・推古天皇の補佐役を担ったとされています。推古天皇の補佐役となった聖徳太子は

  • 冠位十二階の制定
  • 十七条憲法の制定
  • 遣隋使の派遣
  • 『臣連伴造国造百八十部并公民等本』『国記』『天皇記』の編纂

などを行いました。その後、推古天皇30年(622年)2月22日、聖徳太子は49歳で亡くなったとされています。

一万円札の肖像となった聖徳太子

昭和5年(1930年)、聖徳太子の肖像画は百円紙幣の絵柄として初めて起用されました。その後も、百円紙幣のみならず千円紙幣、五千円紙幣、一万円紙幣の絵柄として起用されることとなります。そのため聖徳太子は「お札の顔」として広く日本国民に知れ渡るようになりました。

現在は聖徳太子の肖像が描かれた紙幣は発行されていないため、若い方は見たことがないかもしれませんが、高度経済成長期に聖徳太子の肖像が描かれた一万円紙幣は発行されていたため、40代以上の方は見たことが多いのではないでしょうか。

聖徳太子が描かれた紙幣

出典画像:Wikipedia

聖徳太子の実在していなかった説

多くの方が小学校の授業で聖徳太子について習っているかと思います。まず聖徳太子という名前は本名ではありません。本名は先ほども述べたように「厩戸皇子」といいます。聖徳太子亡き後、聖徳太子が残した数々の功績を称え「聖徳太子」と名付けられたとされています。実際に「厩戸皇子」と呼ばれる人物は存在していました。しかし、実際に聖徳太子は多くの功績を残したのか?という聖徳太子虚構説が存在しています。
聖徳太子は多くの方がご存知のように

  • 冠位十二階の制定
  • 十七条憲法の制定
  • 遣隋使の派遣

を行いました。それだけではなく『臣連伴造国造百八十部并公民等本』『国記』『天皇記』の編纂、また法隆寺や四天王寺の建立、三経義疏を著すなどを行っています。これらの政策を1人で行うには無理があり、聖徳太子がすべて行ったとは考えられません。そのため、実際に聖徳太子が冠位十二階の制定や十七条憲法の制定、遣隋使の派遣などに関わっていたのかどうか調査されました。その結果、

  • 十七条憲法の制定は、そもそも聖徳太子が生きていた時代に制作されたものであるか疑問視
  • 厩戸皇子(聖徳太子)が遣隋使の派遣、冠位十二階の制定に関与したという主体的な証拠がない

などが判明し、聖徳太子虚構説が誕生しました。つまり、「厩戸皇子」という人物は実在したものの、聖徳太子が行ったとされる様々な功績に関与したという証拠がないため、聖徳太子は存在しなかったのでは?ということです。

小学校や中学校、高校の教科書から姿を消す聖徳太子

このように聖徳太子が行ってきたとされる数々の政策に聖徳太子自身が関与していたという明確な証拠がないため、平成26年(2014年)から清水書院の高校日本史教科書では、聖徳太子虚構説が取り上げられることとなりました。また平成14年(2002年)から山川出版社の『詳説日本史』では「聖徳太子」という呼称は存命中使用されていなかったことから、聖徳太子の本名である「厩戸王」が記載されるようになりました。

しかし、聖徳太子のことを「厩戸王」と記載することによって、表記が変わると覚えずらいという意見があったため、文部科学省は再び「聖徳太子」と修正することを検討しているという報道が2017年3月になされています。

まとめ

いかがでしたか?冠位十二階の制定や十七条憲法の制定、遣隋使の派遣などを行ってきたとされる聖徳太子でしたが、実はこれらの政策に関わった明確な証拠がないため、聖徳太子の存在を疑問視する声が存在していました。また聖徳太子という名前は存命中に使用されていた名前ではないということから、教科書には本名である「厩戸王」または「厩戸皇子」と記載されるようになり、聖徳太子の存在自体を疑問視する聖徳太子虚構説も取り上げられています。

聖徳太子のみならず多くの歴史は研究結果によっては事実が覆されることがあります。聖徳太子の研究もまだまだ続けられていくと思うので、もしかするとまた歴史教科書の内容は書き換えられるかもしれませんね。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

twenty − 11 =