【平清盛】の凄さ!日宋貿易を行った理由は?なぜ厳島神社を建てたの?わかりやすく説明します

 

かの有名な平清盛は平安時代末期に活躍した武士です。

妻であった平時子の妹・平滋子を後白河上皇の皇后にし、また娘・盛子を関白であった藤原忠通の息子・基実に嫁がせるなどして朝廷内で発言権を持つようになると、平清盛は1167年、太政大臣に就任となりました。

しかし、翌年の1168年には病に倒れることとなり、わずか3か月で太政大臣を辞任すると出家します。

出家後、体調を戻した平清盛は念願だった厳島神社の整備や栄(現在の中国)と行っていた日宋貿易の港の拡大を行い始めます。

平清盛が行った日宋貿易は莫大な財貨を手にする結果となり、またこの頃になると平家一門が朝廷内で権力を持ち始める、全国に500ほどの荘園を保持することができるなど、まさに平家の英華を極めた時代でした。この頃詠まれた有名な「平家にあらずんば、人にあらず」とはまさに、平家一門の隆盛を表す言葉です。

その後、権力を持った平清盛は娘・盛子から誕生した安徳天皇を幼帝としますます権威を強めましたが、平氏討伐のために源氏が挙兵した翌年の1181年、64歳で亡くなりました。

今回はそんな平清盛の生い立ちや経歴、また平清盛が中国との間で行った日宋貿易や拡大した港、平清盛が整備した厳島神社についてご紹介していきます。

平清盛の経歴

平清盛の生い立ち

平清盛が誕生したのは平安時代末期にあたる永久6年(1118年)1月18日のことです。

平忠盛の長男として現在の京都府京都市で誕生したと考えられています。母は判明していませんが、白河法皇に仕えていた女性または祇園女御の妹と考えられています。

しかし、平清盛が3歳の頃に母とされる祇園の女御の妹が亡くなっているため、平清盛はその姉である祇園女御のもとで育てられたとされています。

平清盛、妻を迎える

大治4年(1129年)正月、12歳となった平清盛は従五位下・左兵衛佐に就任します。

いつ平清盛が結婚したのかは分かっていませんが、平清盛よりも身分の高い延臣・高階基章の娘を正室に迎えたとされ、2人の間には重盛・基盛が誕生しました。

しかし、正室である高階基章の娘は亡くなってしまったため、久安元年(1145年)頃、平時信の娘である平時子を継室として迎えました。久安3年(1147年)には2人の間に宗盛が誕生します。

厳島神社を信仰するようになる

久安5年(1149年)頃に安芸守に就任した平清盛は瀬戸内海の制海権を手にします。これによって平清盛と父・平忠盛は西国で勢力を伸ばすこととなりました。

厳島神社の写真画像出典:Wikipedia

またこの頃より宮島にある厳島神社を信仰するようになったとされています。

厳島神社とは、広島県廿日市市の宮島にある神社で、今ではユネスコの世界文化遺産に登録されています。この神社の歴史は古く推古天皇元年(593年)、有力豪族・佐伯鞍職が水の神であった市杵島姫命から神託を受け、社殿を建立したのが始まりとされています。

仁平3年(1153年)、父・平忠盛が亡くなります。これによって平清盛は平家一門の頭領となりました。

保元の乱の勃発

保元元年(1156年)の保元の乱が勃発します。

この保元の乱とは天皇家の継承問題や摂関家の内紛など様々な要因で勃発した争いで、朝廷内が後白河天皇方、崇徳上皇方に分裂し、さらには源氏、平家も巻き込む武力衝突に発展しました。

後白河天皇

後白河天皇の肖像画画像出典:Wikipedia

平清盛は義母・池禅尼が崇徳上皇の子供である重仁親王の乳母であったため、どちらに味方すべきか悩むことととなりましたが、後白河天皇方に味方することとなります。

結果、後白河天皇方の勝利に終わり、平清盛は勝利に導いた功績から播磨守、大宰大弐の地位が与えられました。

平治の乱の勃発

その後の平治元年(1159年)、平治の乱が勃発します。

平治の乱とは信西と藤原信頼、二条親政派が起こした対立です。この乱にも武士勢力が絡む結果となりました。

平治の乱で平清盛は政権を握っていた藤原信頼、また反信西派であった大炊御門経宗・葉室惟方などを一掃します。

この平治の乱で源氏ので源義朝・源重成・源季実・源光保といった力のある武士が戦死したため、平家を邪魔するものはいなくなり、これによって平清盛は朝廷内で軍事力、警察力を掌握していくこととなり、急速に政治地位を伸ばしていくこととなりました。

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二条天皇による後白河院政の停止

その後、平清盛は妻の平時子が当時の天皇である二条天皇の乳母であったことから、天皇の乳父として権力を握ります。また後白河上皇の院庁の別当にもなり、二条天皇、後白河上皇どちらにも仕えるようになりました。

二条天皇二条天皇の肖像画出典画像:Wikipedia

また妻・平時子の妹である平滋子は以前から後白河上皇の皇后となっており、応保元年(1161年)9月、2人の間に第七皇子(憲仁親王、後の高倉天皇)が誕生します。この時、平時忠と平教盛は2人の間に誕生した憲仁親王を次期天皇として擁立しようと画策します。

しかし、この動きを察知した二条天皇は憲仁親王を擁立していたことに対し怒り、後白河院政を停止させたのでした。

各方面との関係性の維持

この際、二条天皇、後白河上皇のどちらにも仕えていた平清盛は、京都の警護のために武士を派遣させることで、二条天皇を支持しているということを明確にしたとされています。

しかし、二条天皇を支持した平清盛は、長寛2年(1164年)に後白河上皇のために蓮華王院を造営するなど後白河上皇にも非常に気を遣っていました。また摂関家との関係を深めるため娘・盛子を関白・近衛基実に嫁がせます。

このように平清盛は二条天皇を支持しながらも後白河上皇と平家が対立しないように蓮華王院を造営、また摂関家との関わりを深めるために娘を関白・近衛基実に嫁がせるなど、さまざまな工夫を行い、各方面との関係を保ち続けました。

六条天皇の即位と後白河院政の開始

そんな中、長寛3年(1165年)二条天皇が後白河上皇に警戒心を持ったまま崩御します。

これによって二条天皇の息子・六条天皇が後継者となったのでした。しかし、この時、六条天皇はまだ2歳と非常に幼かったため、摂関家の近衛基実が六条天皇の摂政を行うこととなります。この時、平清盛は大納言に就任し近衛基実の補佐を務めました。

六条天皇が即位したことによって喜んでいたのは摂関家だけではありません。六条天皇の祖父である後白河上皇もです。

後白河上皇は孫の六条天皇が即位したことによって再び院政を行おうと考えていました。そのため後白河院政派は次第に朝廷内で力を盛り返していくこととなります。

これに対し平清盛は後白河上皇の性格やこれまでの経歴、また行動などから再び後白河院政が始まることに対し強い不安を感じていました。

平清盛が行った厳島神社の整備と中国との日宋貿易

そんな中、仁安3年(1168年)平清盛は病に倒れ、出家します。

この際、後白河上皇は平清盛が倒れると政治に影響すると考え、六条天皇から自身の第七皇子・憲仁親王に譲位させ、政治の安定を図りました。

病状から回復した平清盛は念願だった厳島神社の整備と、日宋貿易のための港の拡大に力を注ぎます

厳島神社の整備

海側から見た厳島神社の写真出典画像:Wikipedia

平清盛は長年にわたって厳島神社を信仰していました。厳島神社の整備を行った理由は「平家物語」に記されています。

「平家物語」によると、平清盛がある夜、夢枕で「厳島の宮を造営すると、階位を極めることとなる」と聞いたとされています。これを受け、平清盛は厳島神社の整備を行うに至ったのでした。

現在、目にすることができる厳島神社の寝殿造りは平清盛の命によって作られたものとされています。

 

港を拡張し、莫大な財貨を手にする

日宋貿易とは平安時代中期から中国と日本との間で行われていた貿易です。平氏政権が成立すると、主に水銀などを輸出品としていました。

平清盛は平治の乱が勃発する直前の保元3年(1158年)、博多に日本で初めての人工島を築き、貿易を本格化させていました。そして出家した後の承安3年(1173年)には摂津国福原の外港で、現在の神戸港の一部でもある大輪田泊を拡張し貿易振興策を行います。

こうして始まった中国との貿易で平家は莫大な財貨を手にすることとなりました。

平家にあらずんば、人にあらず

日宋貿易で莫大な財貨を手にした平家はこの頃になると、国内に荘園500余りを保持しており、また朝廷内で権力を持つなど、平家一門にとって隆盛を極めた時期でした。

当時、平時忠はこのように述べています。

平時忠
「平家にあらずんば、人にあらず(平家出身でなければ、もはや人ではない)」

鹿ケ谷の陰謀

平家は英華を誇っていましたが、次第に平氏に対し不満の声が沸き上がります。特に不満を感じていたのが後白河法皇や後白河法皇周辺の院政勢力でした。

治承元年(1177年)6月には鹿ケ谷の陰謀が起きます。

鹿ケ谷の陰謀とは、平氏に不満を抱いていた院政勢力が平家打倒を掲げた事件です。

この事件は結果、平家打倒を掲げた計画が密告され、平清盛のもとに届いたため、平清盛はこの陰謀に関わった人々を処罰しました。

しかし、この時、後白河法皇に対しては罪を問わなかったとされています。

治承三年の政変

治承3年(1179年)6月、後白河上皇の皇后であった娘の盛子が亡くなります。その際、後白河上皇は

  • 亡き平盛子の荘園を平清盛の断りなしに無断で取り上げる
  • さらに7月、平重盛が亡くなると後白河上皇はこの荘園も平清盛に無断で取り上げる

また後白河上皇は平清盛と関係の深い摂関家の家督事情に勝手に口出しするなど身勝手な行動を起こしました。

これに対し、平清盛は怒りを見せ、とうとう同年11月、後白河上皇に対しクーデターを起こしたのでした。このクーデターは治承三年の政変と呼ばれています。

この治承三年の政変で平清盛は反平氏であった39名の貴族や殿上人らをすべて解任すると、親平氏である公家就任させます。

次第に後白河上皇は恐れを感じ、平清盛に許しを請いましたが、平清盛は許すことはなく後白河上皇を幽閉させ、これによって後白河院政は完全に停止となりました。

平清盛
後白河上皇を許さない!!

平家打倒に動きだす

その後、当時の天皇であった後白河上皇の第七皇子・高倉天皇が治承4年(1180年)、平清盛の娘・徳子との間に誕生した第一皇子・言仁親王(後の安徳天皇)に譲位することとなりました。しかし、この治承三年の政変はより一層、反平氏を増やす結果となるのです。

安徳天皇

安徳天皇の肖像画出典画像:Wikipedia

反平氏の勢力が全国に広がり始めると、白河法皇の第三皇子・以仁王が平氏打倒のために挙兵します。この挙兵に源氏の源頼政、源頼朝などが応える形となり、源氏と平家の争いに発展しました。

福原遷都と南都焼き討ち

とうとう反平氏派は京都まで迫っていたため、平清盛は治承4年(1180年)6月、現在の兵庫県神戸市への遷都を決意し福原行幸を強行しました。しかし、平安京付近でも反平氏派の勢力が迫ってきたため、福原への遷都は諦め、同年11月に再び都を平安京に戻します。この遷都はただ人々の不満を生む結果となっただけでした。

翌年の1月には反平氏方との対立の中で、東大寺や興福寺を全焼させてしまうといった出来事もあり、平清盛は源氏や反平氏勢力だけではなく仏教までを敵に回すこととなります。(南都焼討)

平清盛、64歳で亡くなる

このような平家にとって危機的状況の中、平清盛は治承5年(1181年)2月27日、熱病に倒れます。死を悟った平清盛は自身の息子・宗盛にすべてを託すといった言葉を述べ64歳で亡くなりました。

まとめ

いかがでしたか?

平清盛は天皇家との結びつき、摂関家の結びつきなどから権力を持つようになり、平家一門の英華を迎えることとなりましたが、結果平清盛亡き後に起こった壇ノ浦の戦いで平家は滅亡となるのでした。

しかし、平清盛が行った日宋貿易は平家滅亡後も行われ鎌倉時代まで続いたとされています。深く厳島神社を信仰していた平清盛は晩年、厳島神社の整備を行いました。

今では平家ゆかりの地として厳島神社は有名な観光スポットとなっています。ぜひ足を運んでみてくださいね。

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