風林火山【武田信玄】戦国最強ともいわれるその戦績や生い立ちについて!

戦国武将の武田信玄は、現在の山梨県甲府から長野全体を制圧した最強の武将です。武田信玄がどのように育ったのか生い立ちから、なぜ亡くなったのか死因まで、戦績を追いながら解説していきます。また、武田信玄といえば、風林火山です。その言葉の意味と、最強と言われる理由を紹介していきます。

武田信玄の生い立ち

誕生から家督継承まで

誕生から元服まで

1521年(文永元年)11月3日に甲斐武田氏第18代当主の武田信虎の嫡子として誕生します。幼名は太郎です。実際は次男でしたが、長男が7歳で亡くなってしまった為、嫡子となります。1525年(文永5年)に弟の武田信繁(幼名は次郎)が誕生したのがきっかけで父の武田信虎との関係が悪化しました。

1533年(天文2年)上杉朝興の娘の上杉の方と結婚しますが、上杉の方が出産が重く、子供も上杉の方も亡くなってしまいます。

1536年(天文5年)太郎は元服し、名前を【晴信】と改名します。この晴の文字は、室町幕府12代将軍足利義晴からもらいました。元服した後、継室として、左大臣の三条公頼の娘である三条夫人を迎えます。

晴信の初陣

武田晴信の画像

出典画像:Wikipedia

1536年(天文5年)11月に武田信虎は8000人もの兵を連れて、佐久郡平賀城主の平賀源心ら2000の兵力の立て籠もる海ノ口城を攻めましたが、36日間の包囲にも海ノ口城は堕ちず、信虎は引き返してしまいました。その後、 晴信が300人の兵を連れて襲いかかり、海ノ口城は一夜にして落城 してしまいます。この戦いが晴信(武田信玄)の初陣です。

晴信が甲斐武田軍の当主になる

晴信は、母である大井の方からの教育を受けたおかげで知恵があり賢い為、戦で活躍を魅せます。そんな晴信を信虎は警戒していました。信虎は晴信の弟、武田信繁を次の当主にしようと企てていました。

信虎は侵略の為多くの戦をします。戦をするには兵力がいりますが、あまりに多い戦の為、兵力が足りなくなると領民を兵にして戦に挑みます。しかし領民が減ると農作物や税を納める事が出来ず財政は厳しくなります。信虎の行いは、家臣や晴信に反感を買ってしまいます。

晴信は信虎の戦に従軍し、海野平の戦いに勝利して甲府へ帰陣すると、反感を抱いている家臣の力を借りて、信虎を駿河国へ追放します。そうして、晴信は21歳で家督継承し第19代当主になりました。

武田信玄の戦績

信濃国を平定する

甲信越勢力図

出典画像:Wikipedia

晴信が当主になり、まず攻めたのが信濃諏訪領です。1542年(天文11年)に伊那郡高遠城の主の高遠頼継と共に諏訪領へ攻撃を開始し、信濃諏訪の領主である諏訪頼重軍と合戦を行います。この合戦を 桑原城の戦い と言います。この戦いで諏訪頼重は降伏し、自害に追い込まれます。

こうして、晴信は信濃国諏訪領を制圧します。諏訪領を攻め落とすと、次々と信濃国を攻めていきます。
1543年(天文12年)には、信濃国の長窪城の城主である大井貞隆を攻め、自害に追い込みます。
1544年(天文13年)には、北條氏と和睦します。
1545年(天文14年)には、上伊那郡の高遠城の城主である高遠頼継を倒し、次に上伊那郡の福与城の城主の藤沢頼親を攻め、追放します。

また同じ年に、第二次河東一乱と呼ばれている今川氏と北条氏の対立を仲裁し、両家に恩を売ります。これにより、今川家と北條氏との関係が安定し、戦国時代の和平協定と言われる、後年の甲相駿三国同盟へと繋がっていきます。

今川氏と北條氏との関係が良好になると、晴信は更に信濃国平定に向けて攻めていきます。
1547年(天文16年)には志賀城の笠原清繁を攻撃し、また同年に関東管領の上杉憲政は志賀城を救う為に軍を送り出しますが、小田井原で晴信に迎撃され、志賀城は晴信の手に落城し、佐久郡を制圧しました。この戦いを 小田井原の戦い と言います。

上田原の戦いで始めての負ける

戦国佐久郡の城の位置図

出典画像:Wikipedia

これまで晴信は、順調に侵攻し続け、信濃国の平定まであと少しのところまできていました。1548年(天文17年)に信濃国上田原で北信濃の村上義清と戦いますが、晴信はこの合戦で、重臣の板垣信方や甘利虎泰らを失い、晴信自身も怪我を負ってしまい、初めての大敗をします。これを機に小笠原長時が諏訪に侵攻しに来ますが、晴信は小笠原軍を倒します。この戦いを 塩尻峠の戦い と言います。

またも村上義清に敗北

そして、1550年(天文19年)に晴信は小笠原領を攻めます。小笠原長時は応戦するつもりもなく、林城を捨て村上義清に助けを求め、逃げていきました。これで信濃国の中心部も晴信が制圧しました。そして同年の9月に再び、村上義清のいる砥石城を攻めにいきます。

しかし、またしても村上義清に晴信は大敗してしまいます。この大敗のことを砥石崩れと呼ばれています。
兵力で優位だった武田軍ですが、堅城である砥石城の村上軍の兵力が強く苦戦します。この間に、村上義清は対立していた高梨氏と和睦し、2000人ほどの兵を率いて応戦した為、武田軍は撤退を決断せざるを得ない状況になります。村上軍の追撃で武田軍は1000人近く兵が亡くなり、晴信も身代わりの影武者を使って逃げ出すのに成功したほど惨敗しました。これが晴信の2度目の敗北になります。

しかし、武田軍に大勝利した村上義清の戦いもここまでで、1551年(天文20年)武田軍の家臣の真田幸隆の策略で砥石城が落城します。それにより一層武田軍の勢力が増していき、1553年(天文22年)村上義清は信濃国埴科郡の葛尾城を放棄して、越後の有力武将の長尾景虎(上杉謙信)のもとへ逃げます。こうして、信濃国の東部も武田氏の支配下になり、北部を抜かし信濃国を平定しました。

武田軍VS上杉軍 川中島の戦い

「川中島の戦い」は別記事に分かりやすくまとめておりますのでこちらの記事をご覧ください

信濃・駿河・三河・飛騨など、石高は120万石に達する

1568年(永禄11年)に武田信玄は、三河の徳川家康は共同で駿河国の今川領を侵攻します。この戦いを 薩埵峠の戦い と呼びます。武田信玄は相模国の北條氏康に協力するように持ちかけますが、北條氏康は今川氏側につきます。これにより甲相同盟はなくなりました。川中島で何度も対戦した上杉と一時的ですが和睦し、 三増峠の戦い北條氏に勝ち駿河国を制圧します。

1571年(元亀2年)信長の勢力が増してきたのでそれを抑えたい信玄は、信長と親交のある徳川家康を倒そうと遠江・三河へ侵攻を行います。信玄は小山城、足助城、田峯城、野田城、二連木城を落とします。

また北條氏康はまた武田信玄と和睦するように息子に言い残し亡くなってしまいます。この時点で武田家の領土は、甲斐国と信濃、駿河、上野西部、遠江・三河・飛騨・越中の一部にまで広がり、石高はおよそ120万石に達しました。

徳川家康が大敗した三方ヶ原の戦い

三方ヶ原の戦い画像

出典画像:Wikipedia

1572年(元亀3年)信玄は、軍を分けて違うルートで二俣城で合流する西上作戦を行います。猛将の馬場信春に別部隊をつけ、別の方向から二俣城を包囲させます。そして、武田信玄の本隊は偵察にきた徳川軍と鉢合わせし、武田軍が猛攻します。これを 一言坂の戦い と言います。

その後、馬場信春らと合流した武田信玄は二俣城を落城します。これを 二俣城の戦い
と言います。そして、武田信玄は、家康がいる浜松城へ攻めに行きます。

武田信玄は、浜松城に接近しますが攻撃することなく、三方ヶ原へ向きを変更して進んでいく作戦をとります。すると、徳川軍はこの機を逃してはならないと、追撃しようと浜松城を出ていくと、なんと武田全軍が陣をとり待ちかまえていました。この戦法で武田軍は大勝し、あの家康が大敗をしました。

風林火山の意味とは?

風林火山の旗

出典画像:Wikipedia

武田信玄といば、風林火山の軍旗が有名です。
その風林火山の意味はというと、です。疾如風、徐如林、侵掠如火、不動如山の最期の文字をとったものが、風林火山です。これは、孫子兵法書の第七章「軍争篇」に出てくる一節です。

「故其疾如風、其徐如林、侵掠如火、難知如陰、不動如山、動如雷霆。」
意味:故に其の疾きこと風の如く、其の徐かなること林の如く、侵掠すること火の如く、知りがたきこと陰の如く、動かざること山の如く、動くこと雷霆の如し
訳:軍は、風のように素早く動き、林のように静かに進み、火が燃えるように一斉に侵略し、山のように構えて動かない

この風林火山には、武田信玄の戦う姿勢の根本が書かれていました。

武田信玄の最期

恵林寺にある信玄の墓

出典画像:Wikipedia

表面上は勢力を伸ばしてきた織田信長と同盟を結んでいましたが、三方ヶ原の戦いで織田軍は徳川軍に救援を行ったことがきっかけで、武田信玄は信長を倒そうと決めます。1573年(元亀4年)三河の野田城を落城した後、持病が悪化し吐血をしてしまいます。長篠城で療養をとりますが改善が見られない為、甲斐国へ戻ることにします。そして甲斐国へ戻る途中の三河街道で亡くなってしまいます

武田信玄 
「大ていは 地に任せて 肌骨好し 紅粉を塗らず 自ら風流」
訳:この世は世の中の風潮に任せるのだ。その中で、自分の存在意義を見出して死んで行く。外見だけの見せ掛けで生きてはならない。正直に生きていくことが一番楽である。

そして、武田信玄は息子の武田勝頼に「自身の死を3年の間は秘匿し、遺骸を諏訪湖に沈める事」と遺言を残していたので、1576年(天正4年)恵林寺にて葬儀が行われました。

 

まとめ

いかがでしたか?

武田信玄は、数多くの戦をして沢山勝利してきた戦国武将の中でも強力な武将だったと言えます。武田信玄の軍旗に書かれている風林火山は、信玄の戦う姿勢そのものでした。
もし、病気になっていなかったら、信長の天下統一も難しかったかもしれません。武田信玄は、家臣や部下も大切にしていたので、内紛が起こることもありません。戦略を建て、冷静に戦に挑む姿は圧巻です。

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