征夷大将軍に任命された【坂上田村麻呂】清水寺を立てた理由など、彼の伝説にせまります

桓武天皇から征夷大将軍に任命されたことで有名な坂上田村麻呂。蝦夷の討伐を行った坂上田村麻呂は蝦夷の指導者・アテルイとモレの助命嘆願を行った心優しい人物でした。そんな征夷大将軍・坂上田村麻呂の伝説は、東北地方を中心に日本全国各地に存在しています。しかし、観光地として人気の高い清水寺の創設者であるということはあまり知られていません。

そこで今回は坂上田村麻呂がなぜ征夷大将軍となったのか、蝦夷の指導者・アテルイとモレの助命嘆願を行った理由、清水寺を創設した理由、また東北地方に伝わる伝説についてご紹介します。

 

征夷大将軍・坂上田村麻呂の生い立ち

坂上田村麻呂は天平宝字2年(758)平城京田村里付近で父・坂上苅田麻呂の次男または三男として誕生しました。出身地は現在の奈良市尼辻町付近である平城京田村里付近と考えられていますが、他にも

  • 陸奥国田村庄
  • 蝦夷

で誕生したとも考えられています。坂上田村麻呂の父・坂上苅田麻呂はもともと馬に乗りながら弓を射る「馳射」と呼ばれる職業を得意としていました。代々「馳射」を得意としていた坂上家は、その職業を活かし朝廷に仕え天皇を護衛していたとされています。そのため寝泊まりして天皇を守ることもありました。そんな「馳射」を得意とする坂上家に誕生した坂上田村麻呂も、成人すると「馳射」を取得し、父と同じく近衛府で勤仕し始めます。

 

蝦夷との対立

坂上田村麻呂が誕生した天平宝字2年(758)頃、坂上田村麻呂の出身地とされる陸奥国や大和朝廷は蝦夷と呼ばれる現在の宮城県中部から山形県以北の東北地方と、北海道の大部分に住んでいた人々と対立していました。この対立は、大和朝廷による蝦夷の支配を目的としたもので、それに対し蝦夷は対抗していたのです。

多賀城の建設

神亀元年(724年)頃になると大和朝廷は蝦夷と現在の仙台市太白区付近の間の境界線付近に多賀城を建設します。大和朝廷はこの多賀城を軍事拠点とするため建設したのでした。多賀城が建設された頃、大和朝廷・陸奥国と蝦夷との間で大きな軍事衝突はありませんでしたが、個々での衝突はあったと考えられています。

多賀城正殿跡

多賀城正殿跡の写真出典画像:Wikipedia

 

桓武天皇の1度目となる蝦夷討伐

当時の治世の君は桓武天皇でした。桓武天皇は延暦8年(789年)蝦夷の討伐のため、公卿・紀古佐美を征夷大将軍に命じます。こうして征夷大将軍・紀古佐美率いる蝦夷討伐軍は東北へと向かい、蝦夷軍と衝突を起こしましたが、蝦夷軍の最高指導者・アテルイに破れ、桓武天皇による1回目の蝦夷討伐は失敗に終わりました。

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征夷大将軍とは

征夷大将軍とは蝦夷の討伐を行う指揮官のことです。征夷大将軍という職は、蝦夷の討伐のために作られた職であったため常にある官職ではなく臨時の職でした。征夷大将軍と聞くと多くの方が、源頼朝や足利尊氏を思い浮かべるかと思います。しかし、征夷大将軍とは、飛鳥時代から存在する官職で、もともとは蝦夷の討伐のために作られた官職であったのです。後に征夷大将軍に任命される源頼朝や足利尊氏が活躍する時代にはすでに蝦夷は滅亡していますが、目的を変え「征夷大将軍」という官職は使用されるようになりました。

 

2回目の蝦夷討伐・坂上田村麻呂、征夷大将軍の補佐役に就任

1度目の蝦夷討伐で失敗した桓武天皇は延暦11年(792年)、2回目の蝦夷討伐を計画しました。

2回目となる蝦夷討伐では、公卿・大伴弟麻呂が征夷大将軍に任命されました。その征夷大将軍・、公卿・大伴弟麻呂の補佐役として坂上田村麻呂が征東副使に任命されます。こうして翌年の延暦12年(793年)に京都を発った蝦夷討伐軍は、延暦13年(794年)に蝦夷と衝突します。2度目となる蝦夷討伐の詳細は残されていませんが、坂上田村麻呂は征東副使とし中心的な活動を行ったと考えられています。

 

3回目の蝦夷討伐・坂上田村麻呂、征夷大将軍に就任

2回目の蝦夷討伐から3年後、桓武天皇は3度目となる蝦夷討伐を命じます。40歳となった坂上田村麻呂は延暦16年(797)11月5日、3度目となる蝦夷討伐の征夷大将軍として任命されました。征夷大将軍に任命された坂上田村麻呂は

  • 4万の軍勢
  • 5人の軍監
  • 32人の軍曹

を率いて延暦20年(801)2月14日、京都を発ちます。京都・平安京から発った坂上田村麻呂率いる蝦夷討伐軍は蝦夷征討を成功させたと『日本略記』記されています。どのような経緯で、蝦夷を討伐したのかは分かっていませんが、討伐に成功した坂上田村麻呂らは京都へと戻りました。

 

胆沢城を築く

京都へと戻った坂上田村麻呂は延暦21年(802年)1月9日、再び蝦夷へと向かいました。3度目の蝦夷討伐において支配した土地に、蝦夷支配のための胆沢城を築くためです。

胆沢城跡

胆沢城跡の写真出典画像:Wikipedia

 

アテルイの降伏

延歴22年(803年)4月15日、坂上田村麻呂のもとに、これまでの蝦夷討伐で敗北した蝦夷の指導者・アテルイとモレが降伏します。坂上田村麻呂は降伏したアテルイとモレを引き連れ、平安京へと戻りました。平安京に引き連れられたアテルイとモレは朝廷に処刑を命じられます。

しかし、坂上田村麻呂は2人の処刑を反対し、2人の助命嘆願を行ったとされています。

 

坂上田村麻呂が助命嘆願を行った理由

対立関係であった蝦夷の指導者・アテルイとモレの助命嘆願を坂上田村麻呂がなぜ行ったのかは分かっていません。
史料が少ないため、なぜ坂上田村麻呂が助命嘆願を行ったのか分かっていないのですが、坂上田村麻呂がアテルイの人望に惚れ助命嘆願を行ったと考えられています。対立関係でありながらも、敵である坂上田村麻呂のもとに降伏に来たアテルイとモレの人望に惚れたのでしょう。またアテルイは優秀な指揮官であったため、坂上田村麻呂はアテルイを生かし東北の経営に協力させようとした。とも考えられています。

アテルイの処刑

しかし、坂上田村麻呂の助命嘆願は認められず、アテルイとモレは処刑されました。

 

4回目の蝦夷討伐・坂上田村麻呂、2度目の征夷大将軍に就任

延暦23年(804)1月19日、桓武天皇は4度目の蝦夷討伐を計画します。この4度目となる蝦夷討伐でも坂上田村麻呂は征夷大将軍に任命されることとなりました。4度目の蝦夷討伐は坂上田村麻呂にとって3度目の蝦夷討伐となります。再び征夷大将軍に任命された坂上田村麻呂は副将軍3人と軍監8人、軍曹24人とともに4度目の蝦夷討伐の準備開始しました。征夷大将軍に任命された坂上田村麻呂は同時期に造西寺長官にも任命されました。着々と蝦夷討伐の準備が行われていましたが、延暦24年(805)6月23日、突然、藤原緒嗣に蝦夷討伐の中止命じられます。この中止は藤原緒嗣が桓武天皇に

藤原緒嗣
蝦夷討伐のための軍事準備が民の負担になっています

と述べ、これを桓武天皇が認めたため4度目の蝦夷討伐は中止となったのです。

 

桓武天皇の崩御

延暦25年(806)3月17日、桓武天皇が崩御します。桓武天皇亡き後、天皇となったのは桓武天皇の第一皇子・平城天皇でした。坂上田村麻呂は平城天皇の側近として右近衛大将に任命され、右腕として活躍しました。
しかし即位してからわずか3年後の大同4年(809)4月1日、平城天皇は以前から病気を患っていたため、皇太弟・神野親王(後の嵯峨天皇)に譲位すると、現在の奈良に位置する平城京へと身を移します。

 

薬子の変

平城天皇は以前から藤原薬子と呼ばれる女性を寵愛していたとされています。

藤原薬子とは藤原式家の藤原種継の娘で、宮仕えになった際、平城天皇から寵愛を受けるようになったとされています。

その藤原薬子は平城天皇の後ろ盾を利用し、自身の兄・藤原仲成とともに権力を掌握していました。しかし、平城天皇が皇太弟・神野親王(後の嵯峨天皇)に譲位するということは、2人にとって権力を失うことであったため、平城天皇の譲位を反対したとされています。しかし、兄である平城上皇から譲位された弟・神野親王は即位し、嵯峨天皇となりました。

嵯峨天皇が京都の平安京で政治主導権を握ることとなりましたが、実質、実権を握っていたのは平城京に移った平城上皇と藤原兄弟でした。未だ権力を持ち続ける平城上皇は勝手に平安京から平城京に遷都するといった詔を発します。

これに対し平安京にいる弟・嵯峨天皇は遷都に反対したため、兄・平城上皇と弟・嵯峨天皇は対立関係となったのです。

 

平城天皇

平安京を廃して、平城京に都を再び置こう!平城京に遷都だ!

嵯峨天皇
 何を勝手なことを言うか!

遂に、武力闘争にまで発展となり、平城京にいた平城上皇は兵を引き連れ、平安京へと向かいます。

挙兵を知った弟・嵯峨天皇は坂上田村麻呂に平城上皇の挙兵の阻止を命じると、坂上田村麻呂は大同5年(810年)9月12日、平安京へと向かう平城上皇らを阻止することに成功し、平城上皇は平城京へと戻っていくのでした。その後、平城京に戻った平城上皇は出家、藤原薬子は毒を飲み自害したとされています。これらの騒動は「薬子の変」と呼ばれています。

 

坂上田村麻呂の最期

晩年、坂上田村麻呂は国政に参加していたとされています。しかし、弘仁2年(811)5月23日、平安京粟田口にある別宅で54歳で亡くなりました。

 

伝説

征夷大将軍に任命された坂上田村麻呂はその功績から多くの伝説が残されています。多く存在する伝説の1つをご紹介します。

東北地方に存在する伝説

東北地方において、桓武天皇の命を受けた坂上田村麻呂が達谷窟(現在の、岩手県西磐井郡平泉町にあるお堂)から挙兵した高丸と呼ばれる人物や蝦夷の首長・悪路王を討ったとされる伝説が残っています。しかし坂上田村麻呂は史実上では現在の盛岡市までしか北上していなかったとされています。

ですが盛岡市よりも北にある青森市内にも蝦夷の討伐が行われたとされる史跡などが残されているため、坂上田村麻呂以外の人物も蝦夷の討伐にあたったと考えられています。

坂上田村麻呂以外で蝦夷の討伐にあたっていたのは文室綿麻呂と呼ばれる人物で、蝦夷の討伐を行った文室綿麻呂が自らの戦功を坂上田村麻呂に捧げたため、青森市内などにも坂上田村麻呂による蝦夷討伐の伝説が残されたとされています。

 

清水寺の創設者

坂上田村麻呂は清水寺の創設者とされています。

清水寺の写真出典画像:Wikipedia

京都府京都市東山区清水の音羽山にある清水寺は今では人気の観光スポットとなっています。宝亀11年(780)、坂上田村麻呂は征夷大将軍に就任する前、妻・高子の病気平癒のため鹿の生き血を求め音羽山に入りました。しかし、坂上田村麻呂は音羽山で賢心と呼ばれる僧侶に出会います。この僧侶に出会った坂上田村麻呂は、神聖なる音羽山で鹿の生き血を取ろうとしていたことに対し深く反省し、その反省から自分の邸宅を仏殿として寄進しました。

坂上田村麻呂が寄進した邸宅は延暦17年(798)に大規模に改築、また本尊が安置されることとなり、これが清水寺の始まりとされています。

 

まとめ

坂上田村麻呂は蝦夷の討伐のために征夷大将軍に任命され3度の蝦夷討伐を行いました。蝦夷の指導者・アテルイとモレの助命嘆願を行った理由は今でも分かっていません。征夷大将軍に任命された坂上田村麻呂の伝説は日本各地に存在しています。

その中でも清水寺の創設者であったという伝説はあまり知られていません。清水寺の境内の中には、創設者である坂上田村麻呂のゆかりからアテルイとモレの慰霊碑が建立されています。清水寺に足を運んだ際は、ぜひアテルイとモレの慰霊碑もご覧になってください。

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