飛鳥時代最大の内乱「壬申の乱」【天武天皇】の正体とは。天智天皇との関係は?

天武天皇は日本の基盤を整え、貨幣を鋳造したことでも知られている天皇です。そして、彼は天智天皇とも深いつながりを持っています。天武天皇と天智天皇が生きた時代の飛鳥時代には、壬申の乱という有名な乱もありました。

今回は天武天皇の正体と彼がしたこと、天武天皇と天智天皇の関係について、そして壬申の乱について紹介していきます。壬申の乱は、日本史を見ても珍しい反乱です。まずは天武天皇について簡単に紹介するので、是非参考にしてください。

天武天皇はどんな人物?どんなことをしたの?

天武天皇は天智天皇の弟

天武天皇の画像

出典画像:wikipedia

 

天武天皇は、天智天皇(中大兄皇子)の弟です。二人は舒明天皇と皇極天皇の子供で、天皇に即位するまでの名は大海人皇子と言います。天智天皇の政権下では天皇をサポートする立場をとっていて、兄弟関係も悪くなかったことが分かります。天武天皇は宗教に関する興味が強く、信仰も厚い人物でした。その他にも和歌に関する知識を持っていて、万葉集には天武天皇の歌も残っています。
身体的な特徴としては、その時代の中では長身であったということが分かっています。骨の大きさなどから計算してみたところ、何と天武天皇は175cmもの身長があったのではないかと計算されました。

万葉集とは、日本に現存する最古の和歌集です。天武天皇などの天皇の歌だけではなく、貴族や庶民など様々な身分の人が詠んだ歌が4500首以上も掲載されています。文学としても貴重な資料である万葉集ですが、当時の方言を知ることもできる言語学的にも貴重な資料です。

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天武天皇は国の基盤も作り上げた

藤原京の区画図

出典画像:wikipedia

天武天皇は天皇としても様々な政策を実行していました。上の画像は藤原京の区画の画像です。藤原京は、日本の中で最初に条坊制(南北に走る路を坊、東西に走る路を条として碁盤の目のように路を整備した都市)を採用した都市で、天武天皇が建設を開始しました。

都の建設を手掛けるほどの権力を持っていた天武天皇は、政治面でも功績を残しています。

  • 八色の姓の制定(皇族との血縁関係から新しく身分制度を制定し、皇族の権力をより高める)
  • 古事記・日本書紀の編纂(歴史書を編纂することで、天皇の権力の正統性を示す)
  • 神道の形成(信仰面でも天皇の権威を示す)
  • 国家仏教の原型を作る(仏教が国を守るという仏教信仰の元を作る)
  • 飛鳥浄御原令の編纂(大宝律令の元となる律令を制定する)

 

これらが天武天皇が行った主な政治政策です。天智天皇の時に始まった中央集権化は、弟の天武天皇が様々な政策を行うことでさらに強化されたのです。さらに天武天皇がしたこととして有名なことに、貨幣の鋳造があります。

天武天皇は和同開珎よりも古い、富本銭を鋳造したと考えられているのです。残念ながら富本銭の貨幣としての価値やどの程度流通していたのかなどは分かっていませんが、天武天皇が貨幣経済を整えようとしていたことが分かります。

 

飛鳥時代の内乱、壬申の乱はどのようにして起こったのか?

内乱の原因は天智天皇の心変わり

大海人皇子が兜をかけた石の写真

出典画像:wikipedia

 

壬申の乱は、天智天皇の息子である大友皇子と大海人皇子が起こした内乱です。この内乱では、何と反乱者である大海皇子が勝利しました。この乱に勝ったことで、大海皇子は天武天皇になることができたのです。壬申の乱が起こるきっかけになったのは、天智天皇の心変わりでした。天智天皇は始め、自分を補佐してくれていた大海皇子を後継者にしようと考えていました。

しかし、天智天皇の考え方は時が経つにつれて変わっていきます。理由は大友皇子が思っていたよりも優秀になってしまったからです。自分の息子がどんどん優秀な人物に育っていくのを見て、天智天皇は大友皇子を皇太子にしようと考えるようになりました。天智天皇が大友皇子を皇太子にしようとし始めたことで、大海人皇子は大友皇子を皇太子として推薦します。さらに大海人皇子は争いを避けるために自ら出家を希望して、吉野宮に下っていきました。

以上のことから分かるように、壬申の乱は天智天皇の心変わりが発端として起こった内乱なのです。勢力争いを避けるために一度は自分から出家して吉野に下った大海人皇子ですが、大友皇子が後を継ぐことに何とも思っていなかったわけではありません。

地方豪族を味方に付けて挙兵

大友皇子の画像

出典画像:wikipedia

 

天智天皇が亡くなったとき、息子の大友皇子はまだ24歳でした。吉野に下っていた大海人皇子は地方の豪族達を味方に付けて挙兵します。大友皇子もそのことを知ると挙兵して応戦しようとしましたが、大海人皇子の軍に大敗します。

その結果、大友皇子は首を吊って自決して壬申の乱は収束しました。大友皇子が自決した翌年、大海人皇子は飛鳥浄御原宮で即位し、天武天皇となったのです。

壬申の乱の原因は他にもあった?

天皇の家系図

出典画像:wikipedia

 

大友皇子が優秀な人物に育ち、天智天皇が心変わりをしたことが原因とされている壬申の乱ですが、他にもこの乱の発端には説があります。額田王をご存知でしょうか?額田王は歌人とも知られている女性で、天武天皇の妃ともなった人物です。彼女の歌は万葉集にも収録されていて、その歌の中には天智天皇と天武天皇が彼女をめぐって争っていた、と推測できるものもあります。額田王をめぐって天智天皇と天武天皇にわだかまりができてしまったことが、壬申の乱の原因とする説もあるのです。

まとめ

今回は天武天皇についてと彼がしたこと、天武天皇と天智天皇の関係、壬申の乱について紹介しました。現在の日本の基盤を作ったとも言われている天武天皇は、同じ両親を持つ天智天皇の弟です。天智天皇は最初自分の後継者には天武天皇を考えていましたが、自分の息子である大友皇子が優秀に育ったため、後継者を変更しようと考えました。

その天智天皇の心変わりが壬申の乱を招いたとも考えられています。壬申の乱には他にも額田王をめぐった兄弟間の争いが原因だとする説もあり、確かなことは分かっていません。武勇にも優れた天皇として知られている天武天皇ですが、彼は人生で我慢や苦悩を多く経験した人物でもあるということが分かりました。

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