こんなに凄いぞ【チンギス・ハン】史上最大のモンゴル帝国を作り上げた史上最大の男!逸話や死因まとめ

モンゴルを世界最強の国にしたチンギス・ハンは、ナポレオンと並ぶほどの戦いの天才だと語り継がれており、モンゴルの偉大な英雄です。全モンゴルを統一したあと、アジアからヨーロッパにまたがる大帝国を築きました。
そして「最も広い領土を征服した」として世界史上一位の人物がこのチンギス・ハンになります。凄い事ですよね!

ですが最初からこんなに順風満帆だったわけではなく、族長の父が毒殺された後、部族から追放され、母と親戚合わせて10人に満たない少人数で生きるか死ぬかの生活を長年続けていたという経緯もあります。

また、チンギス・ハンがモンゴルの文化に与えた影響はとても大きく、モンゴル国内にチンギス・ハンの所縁の地が今も数多くあるほどです。
そんなに強かったチンギス・ハン、一体死因はなんだったのでしょうか?

この記事では、チンギス・ハンの生い立ちや強さの秘密、戦略的な戦い方など、逸話も交えて分かりやすく紹介していきたいと思います。

※一説では、チンギス・ハン=源義経 説がささやかれています。それについてはこちらの記事をどうぞ

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チンギス・ハンの生い立ち

チンギス・ハン とは本当の名前ではない?

12世紀中ごろ、モンゴル民族はいくつもの部族に分かれて戦いを繰り返していました。そんな中、1162年に「テムジン」が生まれました。テムジンとはのちのチンギス・ハンの事です。

チンギス・ハンという名前は本名ではなく、本名は「テムジン」といいます。テムジンの名づけ親は父・イェスゲイです。イェスゲイはモンゴル部族の一部族ボルジキン氏族の長(おさ)で、英雄でした。当時、対立していた別の部族の長の名前がテムジンで、それが息子の名づけの由来だそうです。敵対する人物の名前をそのまま息子に名付けるとは、変わっていますよね。
※テムジンとは、モンゴル語で「鉄」を表す言葉でもあります。
母の名前はホエルンといい、もともとはイェスゲイが敵対するメルキト部族の族長の妻でしたが、イェスゲイに略奪されてその妻となりました。

テムジンが産まれた時、体に特徴がありました。

父・イェスゲイ
息子には、目に火があり、顔に光がある。そして右手に血の塊。これは将来、王者になるしるしだ!

テムジンは右手に血の塊を握って生まれたので、「蒼き狼の子孫テムジン」といわれました。

悲しい父の死

9歳の時、とてもつらい出来事が起こります。父・イェスゲイが亡くなったのです。ある日タタール族の人々がイェスゲイを招き、おもてなしとして酒を勧めたのですが、それには毒が入れられており、毒殺されてしまったのです。

父・イェスゲイ
騙された!!!
イェスゲイの死後、彼の部族の部下たちは全ての牛・馬・羊・テントを奪い、テムジン一家を見捨てて去っていきました。
テムジンは、母と弟たちだけで生活することになります。モンゴルでの勢力を一気に失ってみじめな生活を強いられました。遊牧民ならふだんは決して口にしない魚を食べ、ときには野ネズミさえ口にするといった生活、そしてタイチュト氏族からは「偉大な者は幼いうちに始末しておく」と捕まえられ、あわや処刑寸前に助けられるという場面もありました。
テムジンの母
テムジン、大きくなったら裏切者たちに復讐するのです!
このような苦難の中、テムジンは必死に生きながら辛抱強く勇敢な戦士に成長していきました。そして、ライバル部族たちを次々に倒していきました。

ボルテと結婚

17歳で結婚

テムジン17歳の時、セチェン・ボルテという女性と結婚をしました。テムジンの母のふる里であるオンギラート族のデイ・セチェンの娘です。
この二人の結婚の際、デイ・セチェンの頭に浮かんだのは、ケレイト族の族長ワン=ハン(テムジンの父の親友)を2人の支援者にすることでした。当時ワン=ハンはとても力をもっている族長でした。

テムジンは、妻セチェン・ボルテの母が結婚祝いに娘に送った黒貂の毛皮を贈り物にワン=ハンを訪ねました。

ワン・ハン
イェスゲイ(テムジンの父)には世話になった。今度はわしがお前を助けてやろう
ワン=ハンは協力を約束しました。こうして、テムジンは着実に力をつけていきました。

妻が連れ去られる

ある夜のこと。メルキト族が攻めてきて、妻・ボルテを連れ去ってしまいました。
メルキト族は、かって、テムジンの父イェスゲイが、メルキト族の族長の新妻であるホエルンを奪い取ったように、今度はボルテを奪って逃げたのです。妻を奪われたテムジンは、

テムジン
何としてもメルキト族を討って妻を取り戻したい
と、ワン=ハンを訪ねてメルキト討伐の力添えを頼みました。

そしてここで少年時代の親友ジャムカとも会いました。(ジャムカとは、子どもの頃に鹿の骨を交換して兄弟の誓いをしていた仲でした)

かつての親友ジャムカ
俺も一緒に戦うぞ!

18歳の時、ワン=ハンとジャムカの協力を得て三者の力でメルキト族を攻撃することになりました。テムジン軍は大勝利をおさめ、妻・ボルテを連れ戻すことができました。これがテムジンにとっての初陣となりました。これによりテムジンはモンゴル部族の新しい英雄として知られるようになり、分散した部族も参集するようになりました。

テムジン、「ハン」となる

チンギス・ハン

まもなく、青い湖の湖畔にモンゴル族の長者が集まって、クリルタイ(部族長会議)が開かれました。

モンゴル族の長者
いま天の神のお告げがあった。テムジンを部族連合の長とせよ・・・と。
この会議で、テムジンはハンとなりました。この時テムジンは27歳でした。
「ハン」とはモンゴル部族の長を表す言葉です。

盟友ジャムカとの戦い

モンゴル高原で力をつけていく中で、テムジンにとって特に大きな敵となったのが「ワン=ハン」と「ジャムカ」です。

ジャムカに関してはかつての戦友であり盟友です。しかし、互いに覇者を目指し合うもの同士として、決戦せねばならない宿命だったのでしょうか。
二人は壮絶な戦いを何度も行ないテムジンは戦に負け続けますが(十三翼の戦い)冷徹非道なジャムカに部下たちがついていけず、負け続けのテムジンの元に仲間が集結していき、1205年、ついにテムジンは宿敵ジャムカを捕らえることに成功します。

かつての盟友ジャムカを惜しんだテムジンは助命を提案しますが、ジャムカはそれを拒否。ジャムカは革袋に包んで馬の大軍に踏みつぶされるという処刑法で殺されます。これは、大地に血を流さない貴族のための処刑法でジャムカの名誉を考えてのことでした
とても残虐な殺し方に感じてしまいますが、最大限相手を敬った処刑方法だったのですね。

そしてかつては自身に力を貸してくれたワン=ハンとも、戦い、最後にはテムジンの勝利に終わりました。

勢いにもったテムジンは、それからいくつもの部族を倒しました。

なぜチンギス・ハンはこんなにも強かったのか?逸話を紹介

チンギス・ハンがこれほどの大帝国を築くことができた最大の理由は、優れた軍事制度にあります。チンギス・ハンは、部隊を千人隊、百人隊、十人隊に分ける階級制度を採用することにより、どれだけ兵の数が多くなっても的確な指揮を可能としました。

また、遠征の際には体力を消耗していない馬を常に戦闘に使用できるよう、一人に数頭の馬を帯同させ、世界最大の機動力を誇りました。
加えて、戦闘ではまず大量の矢を遠くから放ち、相手を消耗させた後に接近戦を仕掛けるという戦術を用いていました。

ただ力でねじ伏せるのではなく、自軍の力を最大に引き出す知力に長けた軍事制度により、チンギス・ハンは地上の四分の一を領土とする大帝国を築き上げたのです。

テムジン、「チンギス・ハン」となる

こうして1206年、テムジンは「チンギス・ハン」となり、モンゴル全土を統一して大モンゴル帝国を築きました。

「チンギス」とは「強大な」や「光明の神」という意味を持っています。また、テムジンがハン(部族連合の長)に即位した時、五色の鳥が飛んできて「チンギス」と鳴いたいた事からこの名前を付けられた、ともいわれています。

世界征服を目指したチンギス・ハン

モンゴル帝国の最大領域。地上の四分の一もの領土を支配していました。

モンゴル帝国は当時中国の北半分を支配していた「金王朝(きんおうちょう)」に侵攻し、万里の長城の遥か先までの征服に成功します。この戦いは10年にもおよび、当時5000万人いたとされる中国人口の75%以上が殺されてしまいました。

また、チンギスハンは現在のトルキスタンに位置した中央アジアの国家「西遼」に対しても攻撃を仕掛けています。この戦争によってモンゴル帝国はペルシア湾やカスピ海にまでその領土を広めました。

さらにはチンギスハン自ら20万にもおよぶ大軍を引き連れ、中央アジアに征服遠征を行なったのです。遠征軍は通過する都市をことごとく破壊し、現在のウズベキスタン周辺を征服していきました。

モンゴル帝国の勝利は続きインド付近まで侵攻に成功しましたが、高温多湿なインドの環境に対応することができず、ここでやっと軍を帰国させています。こうしてチンギスハンのモンゴル帝国は地上の四分の一もの領土を支配するに至ったのです。

「最も広い領土を征服した」として世界史上一位を誇っています。

チンギス・ハンの死因

一旦帰国したチンギス・ハンは、1227年7月、再度中国を攻める途中、病気になり、危篤状態に陥り亡くなりました。66歳でした。

チンギス・ハン
兵の気持ちが混乱しないように、わしの死は隠しておいておくれ
部下たちが混乱しないよう、また、敵国の侵攻を避けるため、自身の死については秘密にしておくよう息子に命じたといわれています。

チンギス・ハンのお墓はどこにあるの?

チンギス・ハンの死後、遺体はふる里の山に密かに葬られたため、墓がどこにあるのかはわかっていません。彼の死は最重要機密として扱われ、埋葬の目撃者は一人残らず殺されたため、今後も謎が明白になることはないでしょう。

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