若き執権【北条時宗】とは何をした人?生い立ちや経歴について調べてみました

文永の役、弘安の役、2度の元寇から日本を救った若き執権・北条時宗。当時、世界最強の強さを誇ったモンゴル帝国の襲撃を阻止した北条時宗は戦後、高く評価され、英雄視されるようになりました。

そんな北条時宗とは一体どのような生い立ちや経歴を持っていたのでしょうか。今回は北条時宗が何をした人物なのか、また執権となった経緯や元寇、墓があるとされる円覚寺についてご紹介いたします。

北条時宗の生い立ち

北条時宗は鎌倉時代中期の建長3年(1251年)5月15日、相模国鎌倉で誕生しました。

父の北条時頼、母・葛西殿(北条重時の娘)の次男として誕生した北条時宗には

  • 兄:北条時輔
  • 弟:宗政、宗時、政頼、宗頼、桜田時厳

の兄弟がいました。

兄の北条時輔がいたため本来なら家督を継ぐことはなかった北条時宗でしたが、兄・北条時輔は側室から誕生した子供であったため、正室を母にもつ北条時宗が北条家の嫡男として育てられました。

父・北条時頼

北条時頼の肖像画出典画像:Wikipedia

元服を迎え、「相模太郎時宗」と名乗りはじめる

康元2年(1257年)まだ7歳であった北条時宗は将軍御所において元服し「相模太郎時宗」と名乗り始めます。この元服の儀式の際、後に義兄となる安達泰盛が儀式の手伝いをしていたとされています。北条時宗の元服の儀式は北条氏一門や公家などが参加し盛大な儀式となりました。

一方で兄・北条時輔の元服の際は北条時宗ほど盛大な儀式ではなかったとされています。北条時宗の元服の儀式が盛大に行われた理由として、北条時宗が次期棟梁であることを示すためだと考えられています。

北条時宗は何をした人?

小侍所の別当に就任

元服を終えた北条時宗は文応元年(1260年)になると小侍所のリーダー的な役割である別当に就任しました。

小侍所とは主に将軍の供奉、また将軍や御所の警備を行っていた役職です。

もともと小侍所の別当は複数の人間が配置される役職ではなく、北条実時と呼ばれる人物が小侍所のリーダー的な役割を務めていました。

北条実時北条実時の肖像画出典画像:Wikipedia

しかし、北条時宗も別当に就任したことによって、以降、別当に複数の人間が配置されることとなります。北条時宗が別当に就任したのには父・北条時頼の配慮があったとされています。

父・北条時頼は息子である北条時宗が将来、執権に就任した際に困らぬよう経験を積ませるため、教養を多く身に着けている北条実時に指導させようと考えたのでした。

北条実時から指導を受けた北条時宗は知識や教養を叩き込まれ立派に成長しました。

父・北条時頼
立派な執権になるように、北条実時に厳しく指導してもらおう!

11歳で10歳の堀内殿と結婚

弘長元年(1261年)4月、北条時宗は安達義景の娘・堀内殿と結婚します。この時まだ北条時宗は11歳、堀内殿は10歳と非常に幼い年齢でした。夫婦仲は良かったとされており、後の文永8年(1271年)12月に嫡男である貞時を出産します。その後も堀内殿は北条時宗の子供を授かりますが建治3年(1277年)に流産してしまいました。

北条貞時

北条貞時の肖像画出典画像:Wikipedia

14歳で執権の補佐役に就任

文永元年(1264年)7月、6代執権であった北条長時が出家したため、北条政村が7第執権となります。8月には北条時宗も7代執権・北条政村の補佐として連署に務めるようになりました。この時、北条時宗は14歳という若さでした。

連署とは執権の補佐を務めるための役職です。連署は執権の次に要職となる役職でした。

その後文永3年(1266年)には執権の政村や一族の重鎮・北条実時とともに鎌倉幕府を転覆させようとしていた後嵯峨天皇の第一皇子・宗尊親王の廃位と京都への送還、また宗尊親王の嫡男である惟康親王の擁立を行いました。

モンゴル帝国からの服従の要請

この頃、隣国の中国はモンゴル帝国と呼ばれる帝国に支配されていました。

1260年に即位したフビライハンは文永5年(1268年)正月、日本の九州に設置された地方機関である大宰府にモンゴル帝国の国書を持った高句麗の使者を派遣します。

フビライハン

フビライハンの肖像画出典画像:Wikipedia

その国書にはモンゴル帝国に服従を要請する内容が記されていました。

当時、モンゴル帝国は中国大陸のみならず、東南アジアまで勢力を広げていました。しかし、それだけでは飽き足らず日本や樺太、ベトナムやジャワ島までも支配しようとしていたのです。そのためフビライハンは日本に対しモンゴルに服従するよう求めたのでした。

フビライハン
日本よ、モンゴル帝国に服従するのだ!

18歳という若さで執権に就任

ちょうどモンゴル帝国から国書が届いた文永5年(1268年)3月、北条時宗は7代執権・北条政村から執権を継承し8代執権に就任となりました。

この時、北条時宗はまだ18歳という若さでした。

若き執権・北条時宗は前執権の北条政村、また義兄の安達泰盛、北条実時や平頼綱に補佐をしてもらいながらさっそくモンゴル帝国との問題を協議します。協議を重ねた結果、北条時宗はモンゴル帝国に手紙を返さず

  • 国の防衛の強化
  • 異国調伏の祈祷
  • 誰がどれくらい荘園を所有しているかを記載した大田文の作成

などを行いました。

またこの間、モンゴル帝国に滅ぼされた高句麗の残党である三別抄からたびたび援助要請が届いていましたが、北条時宗はこの手紙にも返書を出すことはありませんでした。

モンゴル帝国からの脅し

そうこうしている間に、文永8年(1271年)再びモンゴル帝国からの使者が来日します。この時、要求になかなか返事を出さない日本に対しモンゴル帝国は怒りを露にし

モンゴル帝国
モンゴル帝国に服従しなければ、武力攻撃をしかけるぞ!

と脅しを見せました。この警告に対し北条時宗は西国の御家人たちに対しモンゴル帝国と戦う準備をさせ、またさらに異国警固番役と呼ばれる軍役を設置します。

二月騒動

モンゴル帝国との関係が悪化し始めたこの頃、北条時宗の兄・時輔は弟が執権になったことに対し不満を抱いていました。また同じ一族である北条時章とその弟・教時も北条時宗に不満を抱いていたとされています。

これに対し北条時宗は兄である北条時輔を殺害、さらに自身に謀反を起こそうとしていた北条時章とその弟・教時も殺害しました。それだけではなく、謀反を起こそうとしていた北条教時の姉妹を正室に迎えていた御家人の世良田頼氏も騒動に関係しているとして佐渡へと島流しとしました。

この一連の騒動は二月騒動と呼ばれています。

文永の役

文永11年(1274年)日本に初めてモンゴル軍が襲来します。このモンゴル軍の襲来は「元寇」と呼びます。

モンゴル軍の襲来は2度あり、文永11年(1274年)の1度目となる襲来は「文永の役」、弘安4年(1281年)の2度目となる襲来は「弘安の役」と呼ばれています。

文永の役の鳥飼潟の戦い(『蒙古襲来絵詞』)

文永の役の絵画出典画像:Wikipedia

文永の役において激戦の末、モンゴル軍を追い返すことのできた日本でしたが多くの課題が残されました。そのため北条時宗は再びモンゴル軍が襲来してきたときの事を考え

  • 異国警固番役の拡充
  • 長門国に異国警固番役と同様の役割を果たす長門警固番役を設置
  • 博多湾岸にモンゴル軍の侵攻を阻止するための石塁の設置

など国防強化に務めます。また当時、処罰権を持っていなかった六波羅探題の御家人に対し処罰権を与えるなども行いました。

再び来日したモンゴル帝国の使者を処刑

文永の役の後、再びモンゴル帝国から使者が訪れ、日本に対し降伏するように勧めましたが、北条時宗は受け入れず連署であった北条義政の反対を押し切って処刑するなどしました。

その後も弘安2年(1279年)にモンゴル帝国から使者が送られてきましたが、北条時宗は大宰府で処刑しています。

弘安の役

弘安4年(1281年)再びモンゴル軍が日本に襲来してきます。この襲来は弘安の役と呼ばれ、この元寇において北条時宗は自身の名義で作戦指示を出しました。

弘安の役の御厨海上合戦(『蒙古襲来絵詞』)

弘安の役の絵画出典画像:Wikipedia

約2か月間、日本軍とモンゴル軍は戦闘を行うこととなりましたが、偶然、台風が九州地方を直撃し、これによってモンゴル軍は混乱状態に陥り、そこに日本軍が総攻撃を仕掛けたためモンゴル軍を追い返すことに成功しました。

この奇跡的な台風は「神風」として知られています。

北条時宗の最期

2度に渡ってモンゴル帝国からの襲来を阻止した北条時宗は一時英雄視されるものの

  • 戦地で戦った御家人に対ししっかりと恩賞を与えなかった
  • 財政難の中で再び襲来してくるであろうモンゴル帝国軍に備えなければならなかった

などいくつもの経済問題を抱えることとなりました。

しかし、以前から結核または心臓病を患っていたとされる北条時宗は弘安7年(1284年)4月4日、自身の最期悟ったのか出家し同日に34歳という若さで亡くなりました。

円覚寺で眠る

北条時宗の墓は神奈川県鎌倉市にある円覚寺にあります。

円覚寺

円覚寺の写真出典画像:Wikipedia

もともと北条時宗は禅宗に帰依するなど信心深かったとされ、弘安5年(1282年)北条時宗は元寇の戦死者を追悼するため中国から臨済宗の僧侶・無学祖元を招いてこの円覚寺を創建したとされています。自身が開基となった円覚寺で北条時宗は眠りにつくこととなりました。

まとめ

北条時宗は若くして執権となり、2度もモンゴル帝国の襲撃から日本を守りました。

2度も日本を守ったとされる北条時宗の功績は元寇後も称賛されましたが、太平記戦争が勃発した際も強力な敵国から日本を守った英雄として再び評価されることとなりました。

しかし、終戦後は多くの犠牲者まで出してモンゴル帝国の襲撃を阻止するべきであったのか?文永の役の後、降伏を求め来日したモンゴル帝国の使者を処刑しなければ、2度目の襲来はなかったのでは?など北条時宗の対応を厳しく評価する声が出始めるようになります。ですが、若くして日本の危機を救った北条時宗は立派な活躍を見せたのではないでしょうか。

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