日本の危難を救った英雄【北条時宗】 元寇のエピソードや死因について調べてみました

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北条時宗は文永の役、弘安の役、2度の元寇から日本を救った若き英雄です。18歳という若さで執権に就任し当時、世界最強の強さを誇ったモンゴル帝国からの襲撃を阻止しました。元寇後、北条時宗は高く評価され英雄視されるようになりますが、その評価は幕末、明治、太平洋戦争開戦後も続いたとされています。

しかし、戦後になると多くの犠牲者を出してまでモンゴル帝国からの襲撃を阻止するべきであったのか?など北条時宗の政策に対し否定的な意見が出始めるようになりました。

北条時宗は元寇に対しどのような政策を行っていたのでしょうか。今回は元寇に対し北条時宗が行った政策や日本がモンゴル帝国に勝利した理由、また北条時宗の死因、エピソードについてご紹介していきます。

北条時宗の生い立ち

鎌倉時代中期の建長3年(1251年)5月15日、相模国鎌倉で北条時頼と正室・葛西殿の次男として誕生した北条時宗。

もともと次男であったため家督を譲られる予定はなかったのですが、兄である北条時輔は側室との子供であったため正室との子供である北条時宗が嫡男として育てられました。

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小侍所の別当に就任

康元2年(1257年)に7歳で元服を迎えた北条時宗は「相模太郎時宗」と名乗り始め、文応元年(1260年)になると小侍所のリーダー的な役割である別当に就任します。

小侍所とは主に将軍の供奉、また将軍や御所の警備を行っていた役職です。

もともと別当には北条実時が就任していました。別当は複数の人間が配置される役職ではなかったのですが、父である北条時頼が優秀な北条実時にいずれ執権になるであろう北条時宗の指導を任せたく、北条時宗を別当に就任させたとされています。

執権とは鎌倉幕府の職名で、鎌倉幕府の補佐を行う需要な役職です。政治の実権を握ることができました。

執権の補佐役を務める

文永元年(1264年)7月、北条時宗の叔父でもあり6代執権である北条長時が出家します。そのため、2代執権であった北条義時の五男・北条政村が7代執権に就任しました。

この際北条時宗は7代執権・北条政村の補佐役として連署に務めるようになります。この時、まだ北条時宗は14歳でした。

連署とは執権の補佐を務めるための役職です。連署は執権の次に要職となる役職でした。

モンゴル帝国との交流

北条時宗が執権の補佐を務めていた頃、隣国である中国はモンゴル帝国に支配されていました。

モンゴル帝国とは1206年、チンギス・カンによって創立された遊牧国家です。

1206年以降、モンゴル帝国は次々と支配地域を広げていき、チンギス・カンの孫であるモンゴル帝国第5代帝王のフビライ・ハンの頃には領土を中国のみならずヨーロッパまで広げていました。

フビライ・ハン

フビライハンの肖像画出典画像:Wikipedia

文永3年(1266)頃には史上最大の帝国となっていたモンゴル帝国は次に目をつけたのが日本や樺太、ベトナムやジャワ島などでした。もともとモンゴル帝国と日本には交流関係はありませんでした。しかし、高句麗人であったモンゴル帝国の官吏がフビライ・ハンに対し

モンゴル帝国の官吏
高句麗と日本はこれまで交流を図ってきました。日本は典章や政治が非常に優れた国です。モンゴル帝国も日本と交流してみてはいかがですか?

と提案したため、日本に興味を持ったフビライ・ハンは日本との交流を決意したとされています。一方で、モンゴル帝国は未だ中国王朝の1つである南宋を支配できていませんでした。

南宋を攻略するには海上ルートが必要だと考えたフビライ・ハンは海上ルート確保のために日本との交流を決意したとも考えられています。日本と交流を図ろうとしていたフビライ・ハンですが、後に日本に使徒を派遣する際には

フビライ・ハン
「朕、宋(南宋)と日本とを討たんと欲するのみ」(南宋と日本を討ち取るぞ)

と述べていたとされ、また軍船が整えば

フビライ・ハン
「或いは南宋、或いは日本、命に逆らえば征討す」

と述べていることから、南宋を支配すると同時に日本も支配しようと考えていたことが分かります。

モンゴル帝国からの使者の来日

こうして文永5年(1268年)正月九州の大宰府にモンゴル帝国の国書を持った高句麗の使者が来日しました。

大宰府とは九州筑前国に設置された地方行政機関のことです。

この国書は「大蒙古国皇帝奉書(蒙古国牒状)」と呼ばれ、「大蒙古国皇帝奉書(蒙古国牒状)」にはモンゴル帝国は日本を臣下とする関係を望んでいる。つまり日本に対しモンゴル帝国に服従するよう呼びかけた内容が記されていました。

大蒙古国皇帝奉書(蒙古国牒状)

大蒙古国皇帝奉書(蒙古国牒状)の写真出典画像:Wikipedia

 

執権となった北条時宗の判断

ちょうど、モンゴル帝国から日本に使者が来日した時、北条時宗は7代執権・北条政村から執権を継承し8代執執権に就任したばかりでした。

この時まだ18歳と非常に若かった北条時宗は前執権である北条政村、また義兄(妻・堀内殿の兄)の安達泰盛、北条実時や平頼綱に補佐されながらモンゴル帝国との問題を協議し始めます。

協議を重ねた結果、北条時宗はモンゴル帝国に手紙を返さず国防の強化にあたりました。

当時、モンゴル帝国から派遣された使者は7か月ほど日本に滞在し、手紙の返書を待ったとされています。しかし、結局日本から手紙の返事が返されることなく使者たちはモンゴル帝国へと帰っていきました。日本としては返書をしない=モンゴル帝国と国交を結ばないという考えであったとされていますが、モンゴル帝国には伝わりませんでした。

この頃、日本には中国大陸におけるモンゴル帝国軍の暴虐などが報告されており、北条時宗はモンゴル帝国軍が襲来してきた時に備え、国の防衛強化を行いました。他にも異国調伏の祈祷や誰がどれくらい荘園を所有しているかを記載した大田文の作成などを行います。

文永8年(1271年)モンゴル帝国に反乱を起こしていた三別抄から軍事援助の要請を伝える使者が来日します。しかし日本は三別抄の要請を受け入れなかったとされています。

国防の強化を図る

これまでの間にモンゴル帝国は3回使者を日本に派遣していますが、4回目の来日となった文永8年(1271年)9月、再び日本にモンゴル帝国の使者が来日します。この時もモンゴル帝国への服属を命じる国書を持って来日したのですが、この国書には返書をしなければ武力攻撃を仕掛けるといった内容が記載されていました。

しかしまたもや北条時宗はこの国書に返事をせず、この警告を受け戦場となるであろう鎮西(九州地方)に所領を持つ御家人を、鎮西に向かわせモンゴル帝国軍の襲来に備えるよう命じました。

また他にも

  • 鎮西にいる悪党の討伐を命じる
  • 異国警固番役を設置
  • モンゴル帝国軍の襲来が予想される筑前・肥前の要害の警護
  • モンゴル帝国軍の襲来が予想される博多津の沿岸を警固

など国防の強化にあたりました。

二月騒動

モンゴル帝国との関係性が緊迫化する中、北条時宗の兄である北条時輔は弟である北条時宗が執権になったことに対し不満を抱いていました。

また同じ一族である北条時章とその弟・教時も北条時宗に不満を抱いていたとされています。これに対し北条時宗は

  • 兄である北条時輔を殺害
  • さらに反乱を起こそうとしていた北条時章とその弟・教時を殺害

します。それだけではなく、謀反を起こそうとしていた北条教時の姉妹を正室に迎えていた御家人の世良田頼氏も騒動に関係しているとして佐渡へと島流しとしました。この騒動は二月騒動と呼ばれています。

1回目のモンゴル帝国の襲来:文永の役

文永11年(1274年)ついに日本にモンゴル帝国が襲来してきました。文永11年(1274年)10月5日に対馬に襲来したモンゴル帝国軍は約3万にも及ぶ兵力であったとされ、10月14日には壱岐、19日には博多湾を襲いました。

モンゴル帝国軍は2度日本に襲来しているのですが、1度目のこの襲来は「文永の役」と呼ばれています。文永の役において激戦の末、モンゴル帝国軍を追い返すことのできた日本でしたが、対馬では子供を含めた男女200人の日本人が捕虜として捕らえられフビライ・ハンの娘の公主・クトゥルクケルミシュに献上される、壱岐では1000人以上の日本人が殺害されるなど非常に惨い戦いであったとされています。

文永の役の主な戦いとして赤坂の戦い鳥飼潟の戦いが挙げられ、その様子は絵画で知ることができます。

赤坂の戦い

赤坂の戦いの絵画出典画像:Wikipedia

鳥飼潟の戦い

鳥飼潟の戦いの絵画出典画像:Wikipedia

文永の役において日本が勝利した理由

文永の役においてモンゴル帝国軍を追い返すことができたのは「神風」と呼ばれる暴風雨が九州を襲ったためとされています。教科書でもそう習った方が多いのではないでしょうか。モンゴル帝国軍は文永の役において優勢に戦況を進めた後、海上にある船で一夜を明かそうとしたとされています。

しかし、その夜、非常に強い暴風雨が九州地方を襲い、その際、海上に浮かぶモンゴル帝国軍の船は次々と沈んでいき、日本に勝利がもたらされました。が、実際には「神風」と呼ばれる暴風雨が九州地方を襲ったという記録はなく、また元軍が記録した『高麗史』、『帝王編年記』、『五檀法日記』によると鳥飼潟の戦いでモンゴル帝国軍は日本軍の攻撃に苦戦し撤退に至ったと記載されていることから、文永の役において日本が勝利したのは「神風」と呼ばれる暴風雨のおかげではなく、モンゴル帝国軍に攻撃をしかけ撤退に追いやり勝利したということが事実となります。

文永の役後、再び来日したモンゴル帝国の使者を処刑

文永の役の後、再びモンゴル帝国から使者が訪れ、日本に対し降伏するように勧めましたが、北条時宗は受け入れず連署であった北条義政の反対を押し切って処刑するなどしました。その後も弘安2年(1279年)にモンゴル帝国から使者が送られてきましたが、北条時宗は大宰府で処刑しています。

文永の役後の国防の強化

文永の役でモンゴル帝国軍を追い返すことができた北条時宗は再びモンゴル軍が襲来したときのことを考え

  • 異国警固番役の拡充
  • 長門国に異国警固番役と同様の役割を果たす長門警固番役を設置
  • 博多湾岸にモンゴル軍の侵攻を阻止するための石築地の設置

などさらに国防の強化に務めました。

2回目のモンゴル帝国の襲来:弘安の役

弘安4年(1281年)5月再びモンゴル軍が日本に襲来してきます。この2度目の襲来は「弘安の役」と呼ばれ140,000から156,989の兵力、また4,400艘の軍船が再び対馬に上陸しました。日本に向けられたこの艦隊は世界史上最大規模の艦隊であったとされています。5月21日に対馬に上陸した後、壱岐、長門にも上陸し日本軍と衝突しました。

博多湾にも進入したとされていますが、北条時宗の命によって設置された約20kmにも及ぶ石築地(元寇防塁)のおかげでモンゴル軍は博多湾の上陸を断念したとされています。

石築地(元寇防塁)

石築地が描かれた作品出典画像:Wikipedia

弘安の役において日本が勝利した理由

弘安の役においても日本軍は激戦の末、モンゴル軍を追い返すことに成功しましたが、文永の役と同じように「神風」のおかげで日本は勝利したと紹介されることが多いです。

しかし、「文永の役」は暴風雨が九州地方を襲ったという記録は残されておらず「神風」のおかげで勝利したとは考えられませんが、「弘安の役」においては7月30日の夜、台風が直撃しそれによってモンゴル軍の船が大破したとされています。約4,000隻あった軍船は約200隻しか残らなかったとされているので、モンゴル軍にとって大打撃となった台風でした。この台風によって兵力を失ったモンゴル軍は撤退したとされています。まさに「弘安の役」で日本が勝利したのは「神風」と呼ばれる台風のおかげだったのです。

戦後、経済問題に直面

2度に渡って日本をモンゴル帝国の襲来を阻止した北条時宗は戦後、英雄視されるようになりました。

戦後、北条時宗は

北条時宗
モンゴル帝国はまた日本を攻めてくるぞ。

と考えモンゴル帝国の襲来から日本を守るために

  • 九州の御家人に対し異国警固番役を命じ、沿岸の警備を行わせる
  • 石築地(元寇防塁)を作り続ける
  • 幕府以外の人間にも命令する権限を作る

などの対策を行いました。しかし、これらの政策は財政難の中で行われていたとされ、幕府は頭を抱えることとなります。また戦後、命をかけて国を守りにいた御家人に対し恩賞が与えられないなどの問題が発生し、北条時宗は戦後いくつもの経済問題を抱えるようになりました。

北条時宗の最期と死因

しかし、弘安7年(1284年)には心臓病または結核で病床にあったとされ、同年4月4日、心臓病または結核で34歳という若さで亡くなりました。

北条時宗のエピソード

元寇の後、北条時宗は2度もモンゴル帝国から日本を守り抜いたとして英雄視されるようになります。北条時宗の高い評価は幕末、尊王攘夷の気風が高まるにつれ高く評価されるようになり、明治時代にはいると北条時宗の功績が称えられ従一位が追贈、また元寇記念碑が設立されました。

元寇記念碑元寇記念碑の写真出典画像:Wikipedia

その後も太平洋戦争が開戦すると強大な外敵からの侵略に立ち向かった北条時宗の姿勢はより一層高く評価されるようになります。

中世から近世にかけて北条時宗に対し否定的な評価がされることはあまりありませんでしたが、戦後においては

  • 結果的に日本を守り抜いた者の、多くの犠牲者を出した
  • 文永の役の後、日本に来日したモンゴル帝国からの使者を斬首しなければ弘安の役は防げたかもしれない

など厳しく北条時宗を評価する声が出始めるようになりました。臨済宗の僧侶・無学祖元によると北条時宗は感情的にならずおごることのない立派な人物であったとされています。

若くして執権となった北条時宗が2度も日本を救ったのは常に冷静に対処することができたからかもしれません。

まとめ

北条時宗は執権就任後、2度もモンゴル帝国から日本を救った人物でした。執権に就任したのは18歳の事です。現代だと高校3年生または大学1年生です。

18歳という若さで日本の危機に立ち向かったのですから、もっと長く生きていれば日本の歴史は大きく変わっていたかもしれませんね。

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