【徳川綱吉】生類憐れみの令は行き過ぎた政治?儒学を尊び文治政治へ改革した偉人!

「生類憐みの令」は徳川綱吉によって発令されたものです。儒学を用いて文治政治政策を行った人物として有名ですよね。

「犬公方」「お犬様」などと呼ばれることの多い徳川綱吉。自身の世継ぎ誕生のため生類憐みの令を発令したと習った方は多いのではないでしょうか。

しかし、近年の研究で社会福祉、モラル向上のため生類憐みの令は発令されたと考え直されるようになりました。

そんな徳川綱吉の生い立ちや行った政策や改革、死因や生類憐みの令についてご紹介いたします。

徳川綱吉の生い立ち

徳川綱吉は正保3年(1646年)1月8日、徳川幕府第3代将軍・徳川家光の四男として誕生しました。母親は、徳川家光の側室であった桂昌院とされています。

兄弟には、長女・千代姫、長男・徳川家綱、次男・徳川亀松(5歳で亡くなる)、三男・徳川綱重、五男・徳川鶴松がいます。

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兄・徳川家綱が徳川幕府第4代将軍に

慶安4年(1651年)4月、徳川綱吉が5歳の頃、父・徳川家光が亡くなります。そのため、8月になると長男であった徳川家綱が将軍宣下を受けることとなり、徳川家綱は11歳にして徳川幕府第4代将軍となりました。

徳川家綱画像出典:Wikipedia

承応2年(1653年)8月になると長男・徳川家綱は右大臣に昇進となり、それに合わせて兄・徳川綱重とともに元服し幼名「徳松」から「綱吉」に改名しました。

明暦3年(1657年)「明暦の大火」と呼ばれる江戸の大半を焼いた大火災が起こります。この大火災で竹橋にあった自邸が焼失したため、神田へと移ることとなりました。寛文元年(1661年)8月には徳川姓を名乗るようになったとされています。徳川綱吉は誕生した時から家臣が付けられていましたが、寛文元年(1661年)8月までの間に約380人近くの家臣が派遣されていました。

徳川幕府第5代将軍となる

兄・徳川家綱は徳川幕府第4代将軍となりましたが、30歳半ばになっても子供に恵まれずにいました。

加えて徳川家綱は生まれた時から病弱体質であったため、将軍継嗣問題が浮上していました。そんな中、延宝8年(1680年)5月初旬、兄・徳川家綱は病に倒れます。危篤状態であった兄・徳川家綱は徳川綱吉を呼び出し、徳川綱吉を養子にしました。

徳川綱吉を養子にした兄・徳川家綱は直後の5月8日に40歳で亡くなります。将軍であった兄には子供がおらず、また三兄の徳川綱重もすでに亡くなっていたため、四男であった徳川綱吉が次期将軍として将軍宣下を受けることとなったのでした。

 

堀田正俊を大老に

将軍となった徳川綱吉は、亡くなった兄・徳川家綱の右腕であった大老・酒井忠清を辞任させると、自身が信頼をおく堀田正俊を大老に就任させます。

徳川綱吉は越後高田藩の継承問題を裁定し高田藩を改易にする、各藩の政治を監視するなど、積極的に政治活動を行いました。

 

将軍権威の向上に力を注ぐ

亡き兄・徳川家綱は温厚な人柄で、政治よりも趣味に時間を費やしていました。政務はほとんど大老・酒井忠清や老中たちが行っていたとされています。

老中たちが意見を出しても、将軍である徳川家綱は特に意見を言うことはなく「左様せい(そのように取り計らえ)」と答えていたとされています。政務を任せっきりであったため、徳川家綱は周囲から「左様せい様」と陰口をたたかれていました。

徳川家綱
左様せい

将軍が「左様せい様」など陰口をたたかれていたため、将軍の権威は下落していました。しかし、将軍となった徳川家綱は下落した将軍権威を向上させようと努力したのです。

 

文治政治を推進

将軍の権威を向上させるため、様々な政務を行った徳川綱吉ですが、特に文治政治を推進していました。

文治政治とは

  • 文治政治とは儒学などの理念を用いて社会の秩序を安定させるといった政治の傾向のことを言います。
  • 武断政治とは文治政治に対し、武力や財力で問題の解決を行うことを武断政治と言います。

 

父・徳川家光の代までは武断政治を推進

父で徳川幕府第3代将軍・徳川家光までの政治は様々な問題に対し武力や財力で解決していました。このような政治の傾向を武断政治と呼びます。

徳川幕府に逆らう大名はもちろん、武家諸法度に違反する者などは身分に関係なく改易、または減封をしていたため、失業した人々が増える結果となりました。失業者が増えると、次第に治安は悪化することとなったのです。

結果として武断政治は治安悪化を招くこととなったため、徳川幕府は政治の方針転換を迫られることとなりました。

徳川家光
逆らうものは改易だ!

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兄・徳川家綱は文治政治を推進

徳川幕府第3代将軍・徳川家光が亡くなり、兄である徳川家綱が将軍となると、徳川家綱は文治政治を推進するようになります。これまで武力や財力で解決していた問題を、武力以外で解決しようとしたのです。

将軍となった兄・徳川家綱は失業者を増やす原因となっている大名の改易を減らすため末期養子の禁令を緩和します。また他にも武家諸法度を改正し、殉死の禁止、大名証人制度の廃止などを行いました。徳川家綱が行った文治政治は結果的に、治安の悪化を防ぐものとなりました。

天和の治と評価される

そして兄・徳川家綱が亡くなり将軍となった徳川綱吉もまた文治政治を推進するようになります。

徳川綱吉はもともと好んで儒学を学んでおり、四書や易経といった儒学を家臣に教えたり、学問を教える場である湯島聖堂を建立したりと、なによりも学問を広めようとしていました。

また儒学を学んでいた徳川綱吉は歴代の将軍の中でも最も尊皇心(君主を崇拝する思想)が強い人物で、大和国と河内国一帯の御陵(皇族のお墓)を調査し、修復が必要な御陵計66陵を修復させるなどを行っていました。

学問を広め、尊皇心を持つ徳川綱吉の行う政治は善政として天和の治と呼ばれるようになりました。

 

悪政にはたらく

しかし、貞享元年(1684年)大老・堀田正俊が若年寄・稲葉正休に刺殺されるといった事件が起こります。

この事件を機に、徳川綱吉は老中に不信感を抱き大老を置かず、牧野成貞、柳沢吉保らを重用するようになり、老中を政務から遠ざけるようになりました。

 

母に高位を与える

また母・桂昌院に対し従一位という高位を与えます。従一位ほどの高位が将軍の母親に与えられるのは前例にないものでした。

母親に高位を与えたのは儒学の孝に影響されたためと考えられています。儒学の孝とは父親、母親を敬い、親に仕えるという道徳理念です。母親を敬った結果、徳川綱吉は母親に対し高位を与えたのでした。

また母親・桂昌院と関わりの深い本庄家・牧野家(小諸藩主)を優遇するなどを行いました。

母親や、母親にゆかりのある家を優遇する徳川綱吉の政策は後に「悪政」と評価されるようになります。

また後に「悪政」と評価されることとなった生類憐みの令もこの頃から発布されたとされています。

 

生類憐みの令とは?

徳川綱吉

生類憐みの令がだされた理由

徳川綱吉には世継ぎとなる男子がおらず、世継ぎ誕生のための願掛けのために生類憐みの令を発令したと学校で習った方は多いのではないでしょうか。

世継ぎ誕生の願掛けのため?

徳川綱吉は側室・伝との間に息子の徳松が誕生していました。男子であったため、徳松は徳川綱吉の跡継ぎとして期待されましたが、5歳という幼さで亡くなってしまいます。

その後、息子の誕生に恵まれなかった徳川綱吉を見た母・桂昌院が、帰依していた知足院の僧侶・隆光に相談したところ、僧侶・隆光は

隆光
世継ぎとなる男子に恵まれないのは、前世で殺生をしたからである。徳川綱吉は戌年なので、特に犬を大事にしたら世継ぎに恵まれますよ。

と助言したとされています。

この助言を聞いた徳川綱吉は特に犬を大切に保護する法令である「生類憐みの令」を発布したと考えられていました。また犬に関する法令を多く発令したことから徳川綱吉は「犬公方」「お犬様」と呼ばれたというのが、一般的な認識となっています。

しかし、実は、世継ぎの願掛けのために生類憐みの令を発令したという説は近年では否定されるようになってきました。

その根拠として母・桂昌院が相談した知足院の僧侶・隆光が知足院に滞在するようになったのは貞享3年(1686年)で、生類憐みの令はそれよりも前から発布されていたということがあげられています。

 

江戸の社会福祉、モラル向上のため

では徳川綱吉はなぜ生類憐みの令を発令したのでしょうか。近年の研究によると生類憐みの令が発令されたのは世継ぎの願掛けのためではなく、江戸の社会福祉、モラルの向上のためであったと考えられています。

なぜ徳川綱吉は江戸の社会福祉、モラル向上に力をいれたのでしょうか。まずは生類憐みの令が発布された時代背景についてご紹介いたします。

 

時代背景

生類憐みの令が初めて発布されたのは天和2年(1682年)頃とされています。他にも貞享2年(1685年)の掟が始まりと考えられることもあります。明確な時期は分かっていません。

生類憐みの令は「生類憐みの令」という1つの法令ではありません。徳川綱吉が発令した、生類憐みを憐むことを趣旨としたいくつもの法令をまとめて「生類憐みの令」と呼びます。

徳川綱吉が行った生類憐みの令は約24年間続き、135回もの法令が出されたとされています。

 

安心して暮らせる世の中ではなかった

生類を憐れんだ趣旨の法令が初めて出されたのは天和2年(1682年)頃とされていますが、天和2年(1682年)頃というと、江戸はまだ戦国時代の殺伐とした雰囲気が残っていました。

生類憐みのが発令される以前の貞享元年(1684)には大老・堀田正俊が若年寄・稲葉正休に刺殺されるといった恐ろしい事件も起きていたので、徳川幕府の政策のおかげで戦が少なくなったもののまだ安心して暮らせるような時代ではありませんでした。

武士だけではなく、庶民の間でも殺伐とした雰囲気は漂っており、町中では

  • 町民同士の喧嘩
  • 農民同士の喧嘩
  • 放火
  • 辻斬り

などが起きていました。

 

衛生面も悪く、モラルに欠けていた

またそれだけではなく、町中には病人や捨て子、病気を患い動けなくなった馬などが放棄されるようになります。江戸の町や諸国の町は荒れに荒れていたのです。

また残飯を道端に捨てることでその残飯が野良犬の餌となり、野良犬の増加に繋がりました。野良犬が増加することによって野良犬に襲われる者、また野良犬を虐待、殺害する者などが増えるようになります。江戸の町や諸国の町は衛生面が悪く、またモラルに欠ける人々が増えることとなりました。

 

儒学を広め解決しようとするも

衛生的に悪く、モラルに欠ける町をなんとかしたいとか考えた徳川綱吉は人々が儒学を学ぶことでこの問題は解決すると考え、これまで儒学を教えたり、学問を広める場である学問所を設置したりと、問題解決に力を注いでいました。

しかし、学問を学んだところでこの問題は解決せず、ここで徳川綱吉は生類を憐れんだ趣旨の法令を発令することにしたのです。

 

厳しい法令

生類憐みの令が発令された明確な時期は分かっていません。ですが天和2年(1682年)頃から生類憐み政策は始まったと考えられています。

なぜ生類憐みの令が天和2年(1682年)頃に始まったと考えられるのでしょうか。天和2年(1682年)10月、犬を虐殺した者が死刑となったという記録が残されています。この例を生類憐み政策のはしりとし、天和2年(1682年)頃に生類憐みの令は始まったと考えられるようになりました。

天和2年(1682年)10月に犬を虐待した者が死刑に処されて以降、

  • 貞享元年(1684年)会津藩に対し、生類を憐み、鷹の献上を禁止
  • 貞享2年(1685年)2月、領主の許可なしに鉄砲を使用してはならない
  • 貞享2年(1685年)7月、将軍が御成するとき、犬や猫を鎖で繋ぐ必要はない。(御成とは外出という意味です。これまで将軍が外出する際、犬や猫を鎖で繋がなければいけませんでした。)
  • 貞享2年(1685年)11月、江戸城において貝や鳥、海老などを料理に使うことを禁止する。
  • 貞享3年(1686年)7月、大八車(荷物の輸送に使用された人力車)の使用中、猫や犬を轢かないように注意すること。野良犬に餌をやることを禁止
  • 貞享4年(1687年)1月、病気となった馬を捨ててはいけない
  • 貞享4年(1687年)2月、鳥や魚、亀や貝などを生きたまま食用として販売することを禁止する。
  • 貞享4年(1687年)4月、捨て子は養育すること。人が傷つけてしまった鳥類・畜類は届け出を出さなければならない。
  • 元禄2年(1689年)10月、病気の犬にも餌を与えなければならない。
  • 元禄4年(1691年)10月、蛇使いの興行を禁止。また犬や猫、鼠に芸を覚えさせ見世物にするこを禁止。
  • 元禄6年(1693年)8月、趣味としての魚釣りを禁止。
  • 元禄13年(1700年)、鰻、ドジョウの売買を禁止。

などといった法令が出されるようになります。

中にはかなり厳しい法令もあり、これらの法令は庶民や武士たちの間で混乱を招く結果となりました。

しかし、捨て子の養育や病人の保護などの法令もあり、社会的弱者を守ることができたのです。

 

法令を守れなかった者は

このような厳しい法令であったため守れない者も多くいました。法令を守れなかった者は厳しく処罰されることとなります。処罰の例を一部ご紹介いたします。

  • 貞享4年(1687年)4月9日、病気の馬を放棄したとして武蔵国の村民10人が流罪となる。
  • 貞享4年(1687年)4月30日、鳩に石を投げたため、役人が流罪となる。
  • 貞享4年(1687年)6月26日、徳川家綱の命日である5月8日に、吹き矢で燕を撃ったため多々越甚大夫が死罪となる。これに参加していた山本兵衛は流罪となる。
  • 元禄元年(1688年)10月3日、鳥の巣がある木を切ったため、武蔵国新羽村の村民が処罰となる。
  • 元禄2年(1689年)2月27日、病気となった馬を放棄したため、陪臣14名・農民25名が流罪
  • 元禄2年(1689年)10月4日、評定所の前で犬が争うも、その犬が死んだため坂井政直が閉門
  • 元禄8年(1695年)10月16日、鉄砲で殺した鳥を販売したとして、関与した10人が切腹、1人が死罪。

他にも処罰された者は多くいたと考えられています。

 

徳川綱吉の評価

徳川綱吉の生類憐みの令の政策は過剰な動物保護であるとして悪政と評価させるようになりました。またこの法令が原因となり、幕府の財政を悪化させることとなります。

幕府の財政を改善するために、小判を大量に生産しましたが、一時的に財政が改善されたもののインフレを起こし、混乱を招くこととなりました。

しかし、殺伐とした町の社会福祉、モラル向上のために行われた生類憐みの令の政策は、当時の人々の倫理観を正す素晴らしい政策であったと言えるのではないでしょうか。

徳川綱吉は悪法で民衆を苦しめたという否定的な考えもありますが、殺人や喧嘩が絶え間なく行われている世の中を変えるにはここまでの厳しい法令が必要であったと思います。

 

徳川綱吉の最期と死因

宝永6年(1709)1月10日、徳川綱吉は麻疹に感染し、64歳で亡くなりました。そのほかにも窒息死や殺害などの死因が考えられています。

徳川綱吉の後を継いだ甥・徳川家宣が6代将軍となると、徳川家宣はすぐさま生類憐みの令を廃止しました。

徳川家宣画像出典:Wikipedia

 

まとめ

徳川綱吉の生涯と生類憐みの令についてご紹介いたしました。

生類憐みの令は世継ぎの願掛けのために発令されたと考えられていましたが、実は、社会福祉のため、モラル向上のために行われていました。

悪政と評価される徳川綱吉の政策ですが、みなさんはどのように感じますか?

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