毘沙門天の生まれ変わり?【上杉謙信】って強い!驚きの戦績やその生い立ちも

毘沙門天の生まれ変わり?と信じてしまうほど、上杉謙信は戦国最強ともいわれている武将です。そんな最強の武将と呼ばれるようになるには幼少期に受けた教育や毘沙門天の信仰が影響しています。川中島の戦いの武田信玄や織田信長と戦った上杉謙信について、生い立ちから戦績を解説します。

上杉謙信の生い立ち

誕生から初陣

誕生から林泉寺に入門

春日山城の絵

出典画像:Wikipedia

1530年(享禄3年)春日山城で、越後守護代 長尾為景の四男として産まれます。幼名は虎千代と命名されます。寅年に生まれたから虎が名前に付けられたと言います。

虎千代が誕生した時代背景というと、越後守護代というのは越後守護の上杉氏を助ける位置にあり、大きな権力を得る事が出来る為、越後長尾氏三家(三条長尾家・上田長尾家・古志長尾家)が権力を得ようと争っていました。三条長尾家の為景は他の長尾家よりも強く争いに勝ち、越後国を掌握しましたが、謀反を起こされたりと、越後国内は騒乱していた時に虎千代は誕生しました。

林泉寺の画像

出典画像:Wikipedia

1536年(天文5年)長尾為景は隠居し、家督を兄の長尾晴景が継ぎました。
7歳の虎千代は城下にある林泉寺に入門して、住職の天室光育から古語や漢語など学問や兵法の教えを受けました。また、母親は観音菩薩の信者であり、虎千代はその影響を受けたとされています。

林泉寺では武勇の遊戯をしていて、その戦い方に左右の人を驚かせたほど腕前が良く、また城の模型で城攻めの遊びをしていたと言われています。

父の死後、元服から初陣まで

1542年(天文11年)虎千代が14歳の時に父の為景が病気で亡くなってしまいます。敵対する勢力が春日山城の下まで迫っていた為、兜と鎧を身に付け、剣を持ち父の為景の葬儀に参列しました。兄である晴景は越後をまとめる力量も才能もなく、守護・上杉定実が権利を取り戻し、上田長尾家や上杉定憲、揚北衆らの守護派が中心になって国政を支配する勢いでした。

栃尾城跡に建てられた謙信の銅像

出典画像:Wikipedia

1543年(天文12年)虎千代は元服し、長尾景虎と名乗ります。同年の9月に晴景の命令で、古志郡司であった景虎は春日山城を出発し、三条城に続いて栃尾城を拠点にします。そして1544年(天文13年)内紛さえ治められない晴景を侮った越後の豪族が謀反を起こし栃尾城に攻めてきます。この機会に近辺の豪族も攻めてきました。

景虎は自分の兵を2隊に分けて、1隊を敵の本陣の背後から襲い、混乱した敵に対してさらに栃尾城から本隊を突撃させ敵軍を壊滅させます。景虎には並はずれた兵の指揮官としての才能があり、この初陣(栃尾城の戦い)を勝利しました。

家督相続

下記に解説している黒滝城の戦いに勝利すると、晴景の弱さに不満が募り、景虎を国主にしたいと晴景派と景虎派と派閥が出てきてしまいました。 晴景派についたのは、従兄弟の長尾政景が付き、 先手を取ろうと晴景に持ちかけ、景虎のいる栃尾城に兵を連れて攻めようとしましたが、景虎はその動きを察知して迎え討とうとします。

内紛が起こりそうでしたが、守護の上杉定実が間に入り和解させます。そして晴景に、

守護 上杉定実 
景虎を養子に迎えましょう。

こうして1548年(天文17年) 晴景は景虎を養子にして、家督を譲位し隠退します。 そして景虎は春日山城に入り守護代になります。そして、1550年(天文19年)守護 上杉定実が亡くなり、後継者がいない為、室町幕府第13代征夷大将軍足利義輝は景虎を越後国主の地位を認めました。

上杉謙信の戦績

黒滝城の戦い

その後も越後の国の動乱は治まらず、何度も出陣し、その都度勝利してきました。1545年(天文14年)長尾氏の重臣である黒田秀忠が謀反を起こします。景虎は、晴景の身を案じて春日山城に戻り、出陣しますが、黒田は降参して退陣します。しかし、黒田秀忠はまた機会をみて再び謀反します。その行為に景虎は怒り、晴景と一緒に黒田秀忠一族を滅ぼします。

坂戸城の戦い

景虎が越後国主の地位になったことに、一族である坂戸城主である長尾政景が不満を持ちます。晴景派だった政景は立場が弱くなったこと、また対立していた古志長尾家が景虎を支持するようになり、景虎の勢力が強くなっていました。そして長尾政景は反乱を起こします。まず先に景虎は、政景方の発智長芳のいる板木城を攻めます。

これに勝利し、次に長尾政景のいる 坂戸城 を包囲しこの反乱を鎮圧します。降伏した政景は命は助けられ、景虎の重臣に任命されました。この内乱を収め、景虎は越後統一をしました。

上杉謙信が亡くなった後、上田長尾家と古志長尾家の敵対関係が残り、上田長尾家は政景の実子である上杉景勝に、古志長尾家は上杉景虎に付き争います。その結果、敗れた古志長尾家は滅んでしまいます。この戦いを御館の乱といいます。

武田信玄との川中島の戦い

有名な武田信玄と12年の間に5回も戦う、川中島の戦いは、特集記事がありますのでそちらを参照してください。

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小田原城の戦い

小田原城

出典画像:Wikipedia

戦いの背景

1546年(天文15年)に関東管領が北條氏康に敗れた戦いの河越城の戦いまで遡り、上杉憲政が長尾景虎を頼り越後まで逃げてきます。

室町幕府が設置した鎌倉公方の補佐役として上杉憲政と扇谷上杉氏当主の上杉朝定の古河公方の足利晴氏による連合軍を関東管領と言います。
長尾景虎は、京都へ行き、正親町天皇や第13代将軍足利義輝に拝謁すると、 上杉憲政の補佐として後北条氏の攻め討つ計画 を建てます。そして1560年(永禄3年)に桶狭間の戦い(織田家vs今川家)で今川家が崩れたのをきっかけに、8000もの軍を率いて越後を出陣します。

合戦前の景虎と北條氏康の動き

松山城本丸跡

出典画像:Wikipedia

上野国に入った景虎は、北條家が城主である城を次々に攻め落としていきます。軍事上の重要拠点にする為に 沼田城 を陥落します。続いて岩下城・厩橋城を攻め落とし、 厩橋城 を関東遠征時の拠点にします。
更に那波城・羽生城も陥落させました。こうした景虎の勢力を恐れた関東の諸将は景虎に付くようになり、景虎の兵の人数は増大していきました。

北條氏康は、謙信の動きを知り、武蔵国にある松山城に入ります。長尾景虎の勢力が増し、劣勢に立たされてしまいます。ここで北條氏康は同盟を組んでいた武田信玄と今川氏にも援軍を要請します。そして氏康は松山城を退去して小田原城に籠る作戦をとります。

長尾景虎軍は勢力を増し、古河御所を始め重要拠点となる城を次々と包囲していきます。そして景虎は、軍を率いて上野国から武蔵国へ攻撃を進めていきます。深谷城・忍城・羽生城等を支配していき、さらに氏康がいる小田原城へ攻める為、相模国にまで侵攻していきます。次に鎌倉鶴岡八幡宮に勝利の願文を捧げ、鎌倉も侵攻しました。 その後、小田原へ向かう時に関東公方の在所中心とされていた古河御所を制圧してから藤沢・平塚を経由して小田原城の包囲へ向かいます。

いよいよ小田原城で合戦!?

長尾景虎はようやく小田原城を包囲したものの、長い遠征で兵の食糧や武器などの維持が難しくなり、軍隊の中から不満が募り始めていました。そういう時に北條氏康と同盟を結んでいる武田信玄が川中島で海津城を完成させ信濃善光寺平へ勢力を拡大させていました。桶狭間の戦いで敗れた今川家ですが、戦う準備が整い始め出陣かというところまできています。

こうした情勢の中、 景虎軍についた佐竹義昭らが撤兵を要求し、景虎の了承を得ずに陣を引き払ってしまうなど軍の統率が出来なくなりました。それにより景虎は、小田原城を包囲し攻め入っていたにも関わらず、小田原城を落城させる事は出来ずに1ヶ月にも及ぶ包囲の後、鎌倉に撤退しました。

関東管領の上杉憲政の要請で景虎は、山内上杉家の家督を継承・関東管領就任し、上杉政虎に改します

関東方面の上杉方諸将離れで劣勢に

唐沢山城の戦い

政虎が関東遠征の拠点として重要だった 下野国の唐沢山城 を陥落したく攻めます。唐沢山城主の佐野昌綱と10回に及ぶ攻防戦をします。政虎が勝利し佐野が降伏しても、また反乱を起こすなど何度も裏切り行為をします。

唐沢山城の戦いはとても長く、その間に上杉政虎は輝虎に、その後謙信に改名しています。

上杉と北条という2つの勢力に翻弄される佐野昌綱は、謙信に従っていましたが、1566年(永禄9年)多くの関東諸将が北条方につくようになり、北条方の圧迫を受けたことで佐野昌綱は再び北条方へと転じ謀反を起こします。 これをきっかけに1567年(永禄10年)輝虎は唐沢山城攻めに再び出陣します。
しかし謙信には関東諸将の援軍が無く、苦戦しましたが唐沢山城攻めは結果的に佐野は降伏します。

臼井城の戦い

臼井城跡本丸空堀

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上杉謙信は1566年(永禄9年)北条氏側の千葉胤富の家臣である 原胤貞城主の下総臼井城 へ攻め進んでいきます。謙信の方が兵も多く有利でしたが、相手の軍を指揮していた白井入道浄三の智略や北条軍の松田康郷に敗れてしまいます。これにより、謙信側についていた関東諸将らは北条氏へつくようになります。

その後、武田氏と北条氏の同盟は武田が今川家を攻撃したことで無くなり、謙信は北条方から和睦しようと要請を受け入れて、1569年(永禄12年)に越相同盟が成立します。ここで上杉・北条両者の争いは収束することになりました。

越中進出へ

松倉城の戦い

1569年(永禄12年)謙信は越中へ兵を出します。椎名康胤を倒す為、大軍を率いて 松倉城 へ100日間も長い戦いをします。しかし、この時は武田信玄が上野国へ勢力を伸ばしてきたので、この戦いの途中で退却し、上野国へ向かいます。

そして、1573年(元亀4年)にもう一度、椎名康胤を倒しに松倉城へ攻めに行きます。今回は椎名軍の水と食料のルートを断つ作戦にでます。そして、椎名康胤は降伏し、松倉城を陥落されます。

1570年(元亀元年)越相同盟により、北条氏康の七男である北条三郎を養子にします。信玄は三郎のことをとても気に入り、信玄の名であった景虎と名付けます。そして、信玄自身も法号「不識庵謙信」となります。

尻垂坂の戦い

1571年(元亀2年)北条氏康が亡くなります。受け継いだ北条氏政は越相同盟を破棄して、再び武田信玄と和睦したため、また北条氏と敵対関係になります。

謙信は 新庄城 に本陣を置き、越中の一向一揆軍 富山城 に籠もっているので合戦が出来ません。そして次の戦いでは、越中の一向一揆と野戦での決戦をすることになり、謙信は越中の一向一揆に圧勝します。その結果、富山城と滝山城を陥落させ制圧しました。この後も抵抗する一向一揆と何度も戦い、勝利しています。

七尾城の戦い

七尾城の石垣

出典画像:Wikipedia

1576年(天正4年)謙信が次に狙うのは能登国の平定することです 能登国の七尾城 を抑える事が軍を京に進めるのに非常に重要な位置にありました。七尾城主は畠山氏で、上杉と戦いが勃発します。しかし難攻不落の七尾城は簡単に陥落できず、謙信は七尾城を攻めるのを中止し、その周りの支城を攻め落とし、七尾城を孤立させます。

そして1577年(天正5年)謙信が七尾城へ侵攻しにいきます。畠山軍は15000の兵力を持ち七尾城に籠ります。また畠山軍は織田軍にも援軍を頼んでいます。

この時は真夏で籠るには適さない季節です。水は無くなり、食糧も腐敗し、不衛生な環境で、七尾城内は疫病が流行し、大勢が亡くなったり病気になってしまいます。幼い当主である畠山春王丸も疫病にかかり亡くなってしまいます。

そして、 織田軍の援軍も、謙信がその動きを察知し進路妨害した為に来ません。 畠山氏も弱まり七尾城の落城もあと少しのところにくると、七尾城内で反乱が起こり、開城します。この戦いも謙信が勝利します。

織田軍と最初で最後の戦い

【謙信最期の戦い】手取川の戦い

手取川

出典画像:Wikipedia

七尾城に織田の援軍の総大将は柴田勝家です。織田軍は七尾城が陥落したことを知らず、能登へ軍を向かわせていました。謙信は手取川付近 松任城 に入城し、織田軍を討つ準備をしています。

織田軍の先発隊を率いる柴田勝家と18000人もの兵が手取川を渡りきると、そこで七尾城の落城と上杉軍が待ちかまえている事を知ります。すると柴田勝家は慌てて軍を撤退するように命令すますが手取川が雨の影響で増水していた為渡るのに手惑い、そこに上杉軍に襲撃されます。織田軍は約2000人近く討ち殺され、それに加え、手取川で溺れて数千人が亡くなってしまい、織田軍は大敗し、謙信は勝利します。

謙信の最期

手取川で勝利した謙信は、平定した能登での守備などの政務をしてから越後に戻ります。現時点で謙信は能登から加賀国をほぼ支配しています。謙信は次の遠征の為大動員令をだし、越後の春日山城で上洛する準備を進めている中、急死してしまいます。謙信は享年49でした。

謙信と毘沙門天

毘沙門天の像

出典画像:Wikipedia

毘沙門天というのは、日本の仏教では仏神である、持国天と増長天と広目天と多聞天(毘沙門天)が四天王です。毘沙門天は武神であり、多聞天として表わされます。
上杉謙信は深く毘沙門信仰をしていた為、自分は毘沙門天の生まれ変わりだと信じていました。そのことから上杉謙信は、戦国時代の武将の中で最強と言われ、 ”軍神” と呼ばれたほどです。上杉謙信が合戦の時に用いた旗に毘沙門天の「毘」の文字を使用しています。

まとめ

いかがでしたか?
上杉謙信は、合戦好きと言われるほど、戦略をたて、相手の動きを先読みしたりと頭が良く、武力もとても強い武将です。ただ、上杉謙信は越後国なので、冬場は雪の影響で出陣出来ないので、拡大した領地も取り返されてしまうので制圧した領地はそれほど大きくありません。しかし、あの武田信玄とも互角に戦うことが出来たのは上杉謙信だけではないかと言われています。天下統一した織田信長でさえ、上杉謙信が亡くなるまで越後方面に向かわず、合戦を避けたと言われています。

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