日本三大悪女【淀殿(茶々)】は豊臣家滅亡のキーパーソン?悲劇的な生涯を解説!

女性好きで有名な豊臣秀吉には複数の側室がいたとされています。その中でも有名なのが浅井長政と織田信長の妹・お市の長女である茶々(淀殿・淀君)です。

茶々は幼くして実父・浅井長政を亡くし、血は繋がらないものの父親となった柴田勝家までも戦で失いました。2度も父親を亡くした茶々はその後、柴田勝家の敵である豊臣秀吉の側室となります。悲運な人生を歩んできた茶々ですが、豊臣家を滅亡に追い込んだ女性と考えられ、今では日本三大悪女の1人に数えられています。

なぜ茶々(淀殿)は悪女と称されることとなったのでしょうか。今回は茶々(淀殿)の生い立ちや経歴、そして悪女と称されることとなった原因についてご紹介いたします。

 

淀殿の生い立ち

浅井長政とお市の長女として誕生

近江国(現在の滋賀県)の戦国大名である浅井長政織田信長の妹・お市の長女として淀殿は近江国小谷(現在の滋賀県長浜市)で誕生しました。

浅井長政浅井長政肖像画画像出典:Wikipedia

お市お市肖像画画像出典:Wikipedia

生まれたのは永禄12年(1569年)頃とされています。茶々という名前は本名で、後に淀殿と呼ばれることとなります。

永禄13年(1570年)には妹・初(常高院)、天正元年(1573年)8月には妹・江(崇源院)が誕生し、茶々、初、江は浅井三姉妹と呼ばれました。

 

父・浅井長政を亡くす

天正元年(1573年)、茶々が4歳頃。父の浅井長政が母・お市の兄である織田信長と対立を起こします。茶々たち浅井三姉妹にとって織田信長は叔父にあたる人物でした。

もともと、父・浅井長政と叔父・織田信長は同盟を結んでいました。しかし、浅井長政と同盟関係を結んでいた朝倉氏が織田信長と対立を起こすと、父・浅井長政は朝倉氏との同盟を優先し妻の兄である織田信長に対しと対立することとなったのです。

織田信長との同盟を破棄した父・浅井長政に対し、叔父の織田信長は徳川家康とともに攻撃を仕掛けてきました。父・浅井長政は朝倉氏とともに織田・徳川軍連合軍を迎えるも敗北します。(姉川の戦い)

1度、姉川の戦いで織田信長に負けた父・浅井長政でしたが、織田信長に対抗を続けました。それに対し、天正元年(1573年)7月、織田信長は3万の軍を率いて攻撃を仕掛けてきました。

父・浅井長政、母・お市、そして妹の初、江とともに小谷城(滋賀県長浜市)にいた茶々。しかし、小谷城は叔父の織田信長が率いる軍に包囲され、織田信長軍の攻撃によって小谷城は落城となりました。

城内にいた茶々や妹の初、江、そして母・お市は織田信長の家臣である藤掛永勝に助け出され生き残ることができましたが、父の浅井長政と祖父の浅井久政は自害し亡くなりました。

兄である万福丸は捕らえられ、その後で羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)によって処刑されたとされています。

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母・お市が再婚

小谷城から救出された茶々や妹、そして母・お市は尾張守山城の城主で織田信長の叔父にあたる織田信次に保護されました。天正2年(1574年)9月29日、織田信次が戦死すると茶々たちは織田信長の岐阜城に移動したとされています。

天正10年(1582年)、母・お市の兄である織田信長が家臣の明智光秀に裏切られ自害します。(本能寺の変)この年、母・お市は織田氏家臣である柴田勝家と再婚をし、それによって浅井三姉妹は母・お市とともに越前国北の庄城(現在の福井県福井市)に移ることとなります。

柴田勝家画像出典:Wikipedia

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2人目の父・柴田勝家が亡くなる

茶々ら浅井三姉妹の父となった柴田勝家は天正11年(1583年)、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)と対立を起こします。

この戦いは賤ヶ岳の戦いと呼ばれ、結果、柴田勝家は敗北となりました。羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)負けた柴田勝家は母・お市とともに自害します。茶々ら三姉妹は、母だけではなく浅井長政・柴田勝家と2度も父を亡くすこととなりました。

茶々たちは賤ヶ岳の戦い後、再婚相手である柴田勝家を討った羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に安土城で保護されることとなりました。羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)が三姉妹を保護した後は織田信長の次男・織田信雄が三姉妹の面倒を見ていたともされています。他にも叔父の織田長益が三姉妹の面倒を見ていた、京極竜子が三姉妹の面倒を見ていたなど考えられていますが、確かなことは分かっていません。

 

秀吉の側室となる

天正16年(1588年)頃、茶々は秀吉の側室となりました。この時、19歳であったと考えられています。

豊臣秀吉豊臣秀吉肖像画画像出典:Wikipedia

 

母・お市に似て美女だった?

亡き母親・お市は戦国一の美女と言われるほどの美貌の持ち主でした。そんな母・お市に似て茶々は非常に美しい女性であったと考えられています。

もともと秀吉はお市に心を寄せていたとされ、浅井三姉妹の中でも最もお市に似た茶々を側室に迎えたとされています。

一方で、持明院所蔵の肖像画を見る限り茶々は父・浅井長政に似ていて、そこまで美人ではなかったといった意見もあります。

茶々の容姿について意見は分かれますが、母・お市は戦国市の美女であったことは間違いないようです。2人目の父親である柴田勝家を討った秀吉の側室となった茶々、一体どのような気持ちで側室となったのでしょうか。

 

淀殿と呼ばれる

側室となった翌年の天正17年(1589年)、茶々は鶴松を生みます。茶々の妊娠を喜んだ秀吉は山城にある淀城を茶々に与えたとされ、ここから「淀の方」「淀殿」と呼ばれるようになりました。

鶴松の誕生

秀吉にはねね(高台院)と呼ばれる正室がいました。しかし、ねねとの間に子供は恵まれず、淀殿との間に誕生した鶴松を自身の後継者として考えていました。そのため鶴松を非常に可愛がっていたとされていますが、もともと病弱であった鶴松は天正19年(1591年)3歳にして病気で亡くなってしまいました

鶴松画像出典:Wikipedia

秀頼の誕生

自身の後継者を失った秀吉は甥である豊臣秀次を後継者とし関白を譲る計画をたてていましたが、文禄2年(1593年)に淀殿との間に秀頼が誕生します。

自身の子供である秀頼が誕生すると秀吉は関白を譲る予定だった秀次を避けるようになりました。そして文禄4年(1595年)7月、秀吉は秀次に切腹を命じたのです。(秀次事件)

秀頼画像出典:Wikipedia

 

関ヶ原の戦いが勃発


慶長3年(1598年)8月18日、夫である豊臣秀吉が亡くなります。

豊臣秀吉の後継者となった豊臣秀頼。この時まだ5歳であったため政治を行うことはできず、 五大老(徳川家康・毛利輝元・上杉景勝・前田利家・宇喜多秀家) 五奉行(浅野長政、石田三成、増田長盛、長束正家、前田玄以) が秀頼の政治の補佐を行いました。この時淀殿は、秀頼の後見人として政治に介入し、豊臣政権で実権を握るようになりました。

豊臣秀吉亡き後、秀頼を支えていた五大老の徳川家康五奉行の石田三成でしたが両者は対立を起こすようになります。原因は幼い秀頼に代わって徳川家康が権力を握りすぎたことでした。

徳川家康
このまま天下を取ってしまおう!

と考えた徳川家康。一方で

石田三成
このままでは豊臣家が滅んでしまう!

と石田三成は考え、両者は対立するようになったのです。

慶長5年(1600年)9月、両者の戦いが行われました。

この戦いは関ヶ原の戦いと呼ばれています。
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この時、淀殿と秀頼は中立的な立場にあったとされ東軍・西軍どちらにも属していませんでした。

徳川家康画像出典:Wikipedia

石田三成画像出典:Wikipedia

 

関ヶ原の戦い後

関ケ原の戦いは結果、徳川家康(東軍)の勝利に終わり、石田三成は処刑され亡くなりました。

関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康は淀殿や秀頼のいる大阪城に入ることとなりますが、そこで徳川家康をもてなした際、淀殿は持っていた酒盃を徳川家康に渡し、さらにそれを秀頼に与えるよう求めました。

徳川家康から酒盃が秀頼に与えられたことによって、淀殿は

淀殿
徳川家康が秀頼の父親代わりになった!

と公に宣言したとされています。

しかし、関ヶ原の戦いで勝利し、天下人となった徳川家康は豊臣家の土地を関ヶ原の戦いの恩賞として勝手に東軍についた者たちに与えていました。一方で豊臣家の支配地は減らされてしまいました。

 

徳川家康に対抗

大阪城から徳川家康が立ち去ると、淀殿は秀頼の後見人として大阪城の主導権を握りました。江戸で江戸幕府を開いた徳川家康は淀殿や秀頼といった豊臣氏に臣従を求めましたが淀殿は、徳川家康や江戸幕府に従うことを拒否します。それでも臣従を要求する徳川家康に対し

淀殿
徳川に従うくらいなら、秀頼を殺して自害するぞ!
と主張しました。

 

徳川秀忠は2代将軍に

慶長6年(1603年)、息子の秀頼千姫が結婚します。この千姫とは淀殿の妹・江と徳川秀忠(徳川家康の三男)との間に誕生した長女でした。この結婚は豊臣秀吉の計らいでした。

慶長10年(1605年)征夷大将軍に就任していた徳川家康が息子である徳川秀忠にたったの2年で将軍職を譲ります。

たったの2年で征夷大将軍の座を息子に譲ったのは

徳川家康
これから先、征夷大将軍という座は世襲制になっていきますよ!

ということをアピールするためであったとされています。

こうして征夷大将軍の座を譲られ2代将軍となった徳川秀忠。しかし、淀殿は将軍職が徳川家によって世襲されることに対し激怒していました。なぜなら淀殿は自身の息子である秀頼が成長し関白職に就任するまでの間だけ徳川家康が秀頼に代わって政務を行うと信じていたからです。それなのに、将軍職は徳川家が世襲することとなってしまった。将軍職が徳川家によって世襲されることに対し、淀殿は激怒していました。

 

方広寺鐘銘事件から始まった大阪の陣

慶長19年(1614年)、方広寺鐘銘事件によって豊臣家と徳川家の対立は決定的となります。

方広寺鐘銘事件とは豊臣家が再建を進めていた方広寺大仏殿の鐘に「国家安康、君臣豊楽」と刻まれていることに対し徳川家が

徳川家
「国家安康」という言葉は家康の名前を切り離しているのではないか?これは徳川家を呪い、豊臣家の繁栄を願っているものではないか!

と文句をつけたことから始まった事件です。

方広寺の鐘銘画像出典:Wikipedia

豊臣家は決してそのような意味を込めて刻んだのではないと弁明しますが、徳川家は聞く耳を持たず和解策として

徳川家
豊臣秀頼を江戸に人質として送るか、あるいは淀殿を人質として江戸に送るか

と言ってきたのです。

この要求に淀殿と秀頼は激怒し大名や浪人たちを集め戦の準備に取り掛かりました。豊臣家が戦の準備を始めたことによって徳川家も戦の準備を開始し、こうして大阪の陣が始まったのでした。

大坂夏の陣図屏風(黒田屏風)右隻(大阪城天守閣所蔵)画像出典:Wikipedia

 

大阪の陣で最期を迎える

慶長19年(1614年)に始まった大阪の陣(大阪冬の陣)。淀殿は自ら武具を着て3、4人の女房とともに戦う武士たちに激励を送ったとされています。しかし、大坂城本丸が砲撃を受け大打撃を受けたことで豊臣家と徳川家は講和することとなりました。

しかし、翌年の慶長20年(1615年)には再び戦は始まりました(大阪夏の陣)。大阪夏の陣において豊臣軍10万の兵力に対し、徳川軍20万の兵力であったとされています。約10万という兵力の差がありながらも豊臣方の武士たちは懸命に戦いましたが、大阪城は落城を迎えることとなりました。

落城目前の大阪城にいた淀殿と秀頼。豊臣家の家臣である大野治長が淀殿と秀頼の助命を徳川家康に行いましたが、徳川家康はこれを拒否。

大野治長
どうか、淀殿と秀頼だけはお助けを…

落城目前の大阪城には火が放たれ、淀殿と秀頼は燃え上がる城内で自害し亡くなりました。この時、淀殿は48歳、または49歳。秀頼は23歳であったとされています。

これによって豊臣家は滅亡となり、徳川の時代が幕開けとなるのでした。

淀殿・秀頼自害の地の石碑画像出典:Wikipedia

 

悲運の悪女・淀殿

日本三大悪女の1人として知られる淀殿。なぜ悪女とされているのでしょうか。

日本三大悪女には淀殿の他に北条政子、日野富子が挙げられます。

淀殿は実父である浅井長政、そして血は繋がらないものの父となった柴田勝家を戦で亡くしました。それだけではなく最愛の母・お市も亡くしています。2度も父を失うといった悲しい出来事を経験した淀殿でしたが、そんな彼女の夫となったのは、父となった柴田勝家を討った豊臣秀吉でした。

父を討った敵である豊臣秀吉に嫁ぐということは複雑な気持ちであったに違いありません。天下の側室となった淀殿がなぜ悪女と呼ばれているのでしょうか。

悪女と呼ばれる原因として

  1. 勝ち気でヒステリックな性格であった
  2. 豊臣家を滅亡に追い込んだ

があげられます。

 

勝ち気でヒステリックな性格

淀殿は勝ち気でヒステリックな性格であったとされています。その性格が分かるエピソードとしてあげられるのは

淀殿
徳川に従うくらいなら、秀頼を殺して自害するぞ!

という発言です。

この発言は徳川家康が豊臣家に対し、徳川家に従うよう要求したときに発したものです。このような発言から淀殿はヒステリックで勝ち気な性格であったと考えられています。

しかし

  • 父・浅井長政と母・お市を弔うために養源院を建立した。
  • 父の仇である織田信長が亡くなると、信長の側室であるお鍋の方の生活援助を行った。

などの優しい一面が分かるエピソードも残されています。

 

豊臣家を滅亡に追い込んだ

徳川家に従うことを頑固拒否していた淀殿。結果として大阪の陣を招き、豊臣家を滅亡に追い込むこととなったと言われています。このことから淀殿は悪女と見られることが多いようです。

 

まとめ

悲劇の悪女・淀殿の生い立ちと経歴についてご紹介いたしました。

2度も父を亡くし、父の敵である豊臣秀吉の側室となった淀殿。関ヶ原の戦い後、天下人となった徳川家康は淀殿や淀殿の息子である秀頼に徳川家に従うよう要求しましたが、淀殿は徳川家に従うことを頑固拒否しました。結果、豊臣家と徳川家の対立を深めることとなり、大阪の陣を迎え豊臣家は滅亡となりました。そのため、徳川家に真っ向から挑んだ淀殿は豊臣家を滅亡に追い込んだ悪女と評価されることとなったのです。

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