父は藤原の道長!【藤原頼通】とはどんな人物?平等院鳳凰堂は極楽浄土を表現してる!?

望月の歌で有名な藤原道長の長男として誕生した藤原頼通は、平等院鳳凰堂を建立した人物です。現在、私たちが使用している10円玉にも描かれているので多くの方が知っていると思います。摂関政治を行っていた父・藤原道長から後一条天皇の摂政を若くして譲られると、その後、約50年もの間、後朱雀天皇・後冷泉天皇の関白を務めました。

藤原頼通は父・藤原道長とともに藤原氏の全盛期を築いた1人でもあります。

その藤原氏全盛期の象徴とも言えるのが、藤原頼通によって建てられた平等院鳳凰堂です。極楽浄土が表された平等院鳳凰堂は一見、寝殿造りのように見えますが、平等院鳳凰堂にある回路は装飾用であるため、寝殿造りではないとされています。全盛期を迎えた藤原氏でしたが、その後、刀伊の入寇、平忠常の乱、前九年の役などの政変によって権威は弱まることとなりました。

そんな藤原頼通の生い立ちや関白となった経緯、摂関政治を行った経緯や平等院鳳凰堂についてご紹介します。

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藤原頼通の生い立ち

藤原頼通は正暦3年(992年)正月、父・藤原道長とその正室・倫子(源雅信の娘)の長男として誕生しました。

藤原道長

藤原道長の肖像画出典画像:Wikipedia

藤原頼通には父・道長の側室の子供も合わせ、12人の兄妹がいました。

そのうちの

  • 藤原彰子(長女)
  • 藤原頼通(長男)
  • 藤原妍子(次女)
  • 藤原教通(五男)
  • 藤原威子(四女)
  • 藤原嬉子(六女)

が父・道長と正室・倫子の間に誕生した子供であったとされています。

 

正室を母に持つ藤原頼通と藤原教通は側室を母に持つ頼宗、能信よりも早く昇進できるなど、非常に優遇されていました。長保5年(1003年)、12歳になった藤原頼通は元服を迎え「藤原頼通」と名乗り始めます。

元服とは成人を迎えるための通過儀礼です。「藤原頼通」と名乗るまでは「田鶴」という幼名を名乗っていました。

 

隆姫女王と結婚

元服を迎えた藤原頼通はその後、公卿となると、長和2年(1013年)には権大納言という役職に就任します。この時、藤原頼通は22歳で婚期を迎えていました。そんな藤原頼通に具平親王(村上天皇の第七皇子)は自身の娘・隆姫女王を正室に迎えないか。と申し入れます。

具平親王
 隆姫女王を正室にしませんか?

隆姫女王は非常に美しい女性であったとされ、また身分も高いため藤原頼通は喜んで縁談を受け入れました。こうして2人は結婚しましたが、仲睦まじかったものの子供には恵まれませんでした。

 

父・藤原道長と三条天皇の対立

この頃、藤原頼通の父・藤原道長は治天の君である三条天皇に対し譲位を迫っていました。

三条天皇

三条天皇の肖像画出典画像:Wikipedia

これまで三条天皇と父・道長は良好な関係を築いていました。父・道長の次女・妍子が三条天皇の后となっていたからです。しかし次第に両者の関係は悪化となり、三条天皇が失明寸前の病気を患ったのを機に、失明寸前では政務は務まらないと、東宮敦成親王(後一条天皇)に譲位をするように迫ったのでした。

この東宮敦成親王(後一条天皇)とは父・道長の長女・彰子と一条天皇の間に誕生した第二皇子で、父・道長は東宮敦成親王(後一条天皇)が即位することによって、天皇の祖父として摂政を行おうと考えたのです。

藤原道長
孫の東宮敦成親王(後一条天皇)が天皇になれば、摂政を行うことができる!

しかし、三条天皇はなかなか譲位に応じず、父・道長を懐柔するため三条天皇の第二皇女・禔子内親王を藤原頼通の妻とするこを提案します。これに対し、父・道長は同意しましたが、藤原頼通は妻・隆姫以外の女性を妻にすることを嫌がりと縁談に消極的であったとされています。その後、父・道長は無理やり縁談を組むも、藤原頼通が病気を患ったため、この縁談は破談となりました。

長和5年(1016年)三条天皇が父・道長の圧力に負け、東宮敦成親王(後一条天皇)に譲位します。

 

摂政、関白となり、摂関政治を開始

これによって後一条天皇の祖父である父・道長は摂政となり、政治主導権を握ることととなりました。しかし、その翌年にはなると、父・道長は摂政の座を藤原道長に譲り渡します。父・道長がわずか1年で摂政を自身の長男に譲ったのは後継体制を築くためでした。つまり、これから摂政は藤原道長の子孫によって受け継がれていくこととなりますよ。というアピールなのです。

こうして藤原頼通は26歳という若さで摂政となったのでした。

摂政とは幼い天皇や、病弱の天皇に代わり政治活動を行う役職のことです。

その後寛仁3年(1019年)になると、藤原頼通は関白に就任します。

関白とは幼い天皇や病弱の天皇に代わって政務を行う摂政に対し、成人した天皇の補佐を務める役職です。政治主導権、決定権は天皇にありました。

この頃になると、父・道長によって東宮敦良親王(後の後朱雀天皇)に入内させられた末女・嬉子が親仁親王(後の後冷泉天皇)を授かるなどの出来事がありました。父・道長は寛仁3年(1019年)には出家していましたが、出家してもなお、権力を握っていたとされています。そのため、関白となった藤原頼通でしたが、父・道長の判断を受けながら天皇の補佐を務めていたとされています。

 

平忠常の乱の鎮圧

万寿4年(1027年)頼りにしていた父・道長が亡くなります。その半年後の長元元年(1028年)、平忠常の乱が勃発します。

平忠常の乱とは関東で起きた平将門の叔父・平良文の子孫である平忠常が起こした乱です。上総の国府を占領した平忠常はその後、安房守・平惟忠を殺害するといった反乱行為を行いました。

この平忠常の乱に対し朝廷は討伐軍を送り込みます。しかし、なかなか鎮圧することはできず、鎮圧までに約3年を要すこととなりました。この乱を収めたのは源頼信と呼ばれる人物で、この乱を機に清和源氏が関東で勢力を伸ばすようになります。

 

養女・嫄子を入内させる

長元9年(1036年)後一条天皇が崩御します。次に天皇となったのは、その弟・後朱雀天皇(藤原彰子と一条天皇の皇子)で、藤原頼通は後朱雀天皇が即位してもなお関白を続けました。後朱雀天皇が即位すると、 藤原頼通は自身の養女・嫄子(敦康親王の娘)を後朱雀天皇に入内させます。

藤原頼通と正室・隆姫との間に子供は恵まれず、敦康親王の娘を養女としました。その後も2人の間には子供が誕生することはありませんでした。

 

娘・寛子を入内させる

寛徳2年(1045年)以前から病を患っていた後朱雀天皇が崩御します。その後、天皇となったのは後冷泉天皇(藤原頼通の妹・藤原嬉子と後朱雀天皇の皇子)でした。藤原頼通にとって後冷泉天皇は甥にあたります。この時も藤原頼通は関白を続けており、永承5年(1050年) 側室との間に誕生した自身の娘・寛子を後冷泉天皇のもとへ入内させました。

藤原頼通は2人の間に皇子が誕生することを望んでいましたが、2人は子供を授かることはなかったとされています。

 

10円玉に描かれる平等院鳳凰堂

永承6年(1051年)前九年の役が勃発します。

前九年の役とは陸奥国の、有力豪族・安倍氏と朝廷の間で起きた対立。

関白を務める藤原頼通の権勢は衰えることなく、陸奥国で対立が勃発する中、平安京の御所近くに高陽院を造営、また永承7年3月28日(1052年)には、自身の別荘である宇治殿を改装します。改装された宇治殿こそが現在目にすることのできる平等院鳳凰堂です。10円玉にも描かれているので多くの方が知っているのではないでしょうか。

10円玉の写真出典画像:Wikipedia

治暦3年(1067年)になると藤原頼通は長年務めた関白を辞すると、同母弟の教通が藤原頼通の後を継ぐこととなりました。

 

出家と最期

治暦4年(1068年)3月、以前から病を患っていた後冷泉天皇が崩御します。その後、後三条天皇が即位となりました。

後三条天皇

後三条天皇出典画像:Wikipedia

この後三条天皇とは後朱雀天皇と三条天皇第三皇女・禎子内親王から誕生した皇子です。生母の禎子内親王は藤原頼通の父・道長の孫であるため、後三条天皇と藤原氏は良好な関係を築いていました。しかし、父・道長が亡くなるとその関係は崩れ、藤原頼通と後三条天皇は不仲になったとされています。

また後三条天皇の妻は藤原氏ではないため、これでは後三条天皇が即位し天皇となると、藤原頼通や藤原氏は政治主導権を握ることができないといった事態となるのでした。そのため、藤原頼通はこれまでに、後三条天皇を即位させないように努めてきましたが、結局、藤原氏を外戚持たない後三条天皇が即位となってしまいました。

延久4年(1072年)4月、藤原頼通は出家すると、その2年後の延久6年(1074年)83歳で亡くなりました。

 

極楽浄土を現した平等院鳳凰堂

藤原頼通が造営した平等院鳳凰堂は別荘であった宇治殿を改装したものです。

平等院の写真出典画像:Wikipedia

当時、世の中は平忠常や前九年の役などが相次いで勃発しており、不安定な情勢となっていました。そんな中、人々は極楽浄土を願うようになります。藤原頼通が造営した平等院鳳凰堂はまさに極楽浄土のような建造物でした。

人々
平等院鳳凰堂は極楽浄土のようだ!

 

寝殿造りではない

平等院鳳凰堂は寝殿造りと思われる方が多いのではないでしょうか。

寝殿造りとは平安時代、貴族が住まいとしていた「寝殿」と呼ばれる住宅の様式のことを指します。東西棟に寝殿が建てられ、南北棟には対の屋が建てられ、その間は渡殿、透渡殿によって繋がれています。このような特徴のある住宅様式が「寝殿造り」と呼ばれています。

しかし

  • 南向きな寝殿造りに対し、 平等院鳳凰堂は東向き
  • 寝殿から回廊を抜け釣屋に行くことができるのに対し、 平等院鳳凰堂の回路は装飾

であるということから、平等院鳳凰堂は寝殿造りではないとされています。

 

まとめ

いかがでしたか?藤原頼通は26歳という若さで父・道長から摂政を譲られると、摂政、関白に就任し、その後約50年もの間、後朱雀天皇・後冷泉天皇の関白を務めました。関白となった藤原頼通が造営した平等院鳳凰堂はまさに、多くの人々が願った極楽浄土のような建造物でした。平等院鳳凰堂は今では有名な観光スポットとなっています。しかし、平等院鳳凰堂にはこのような歴史があったのです。

藤原氏全盛期の象徴である平等院鳳凰堂に足を運ばれてみてはいかがでしょうか。

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