鎌倉幕府を開いた源頼朝。鎌倉時代の初代征夷大将軍で北条政子の夫としても知られていますが、それ以外に何をした人なのかご存知ですか?父の源義朝が平治の乱で敗れると伊豆へ流され、源頼朝は伊豆の地で苦労しながら育ちました。
今回は源頼朝が何をした人なのか、簡単な年表にしながら生い立ちを紹介していきます。源頼朝の死因やお墓がどこにあるのかも紹介していくので、源頼朝に興味がある方は是非参考にしてください。
目次
源頼朝は何をした人?年表で紹介(鎌倉時代)
子供時代
まずは源頼朝の子供時代、20歳までの年表とエピソードを紹介していきます。
- 1147年4月8日に愛知県の名古屋市、現在の誓願寺で生まれる。
源頼朝の幼名は鬼武者や鬼武丸でした。源義朝の3男として生まれた頼朝ですが、母親の血筋が良かった頼朝は実質長男のように待遇されていたようです。実際に頼朝は1159年にはたった12歳で上西門院蔵人に就任しています。
- 1159年12月9日、父の義朝が平治の乱で敗戦して源の一族は官職を奪われて京落ち(京都から出て行く)をする。
- 1160年、死刑になりそうだったところを平清盛の継母に情けをかけられて助けられ、伊豆に流刑となる。
伊豆に流刑された頼朝は、この土地で北条政子と知り合い婚姻関係を結びます。
源頼朝が征夷大将軍になる以前の青年時代
ここからは、源頼朝が鎌倉時代最初の征夷大将軍になるまでの簡単な年表を紹介していきます。
- 1180年、治承・寿永の乱で挙兵する。
後白河法皇の皇子である以仁王(もちひとおう)が打倒平氏の令旨を源氏に対して出しました。
源頼朝にも以仁王の令旨が叔父から届けられましたが、最初源頼朝は状況を静観することを選びました。しかし平氏が源氏の討伐を企てていることを知り、自分の危機を知って挙兵することを決意したのです。
- 1184年、一ノ谷の戦いで勝利して平重衡を捕らえて京に戻る。
- 1185年、壇ノ浦の戦いで平氏が滅亡。
この年の4月に頼朝は平宗盛を捕らえたことで、従二位に昇格しました。
- 1185年、大江広元の進言を受けて守護・地頭を置く権利を認めさせる。
逃げた自分の弟である源義経を捕まえるために、源頼朝は後白河法皇から守護と地頭を設置する権利をもらったとされています。自分が守護と地頭を設置することができ量になった頼朝は、自分に味方する御家人を守護や地頭の役職に就かせることで、さらに権力を強めることに成功しました。
置かれた役職です。
- 1189年、奥州藤原氏の藤原泰衡によって、源義経が自害に追いやられる。
義経を匿っていた罪で藤原泰衡の追討を命じ、奥州の乱が起こる。
征夷大将軍になってからの活躍
源頼朝の征夷大将軍になってからの人生を紹介していきます。
- 1189年、後鳥羽法皇が亡くなって後鳥羽天皇が即位し、源頼朝は征夷大将軍に任じられる。
この時頼朝は45歳でした。
- 1193年、富士の巻狩りで長男の頼家が初めて鹿を射止める。
頼朝は自分の長男が12歳で鹿を射止めたことで喜び、妻の政子にこのことを報告する使いを送りました。しかし政子は

と頼朝から送られてきた使者を追い返してしまったのです。
- 1195年、相模川からの帰路で突如体調を崩す。
- 1199年、出家をした2日後に死亡。
源頼朝の死因は?お墓の場所は?
源頼朝の死因は不明
源頼朝の死因は詳しく分かっていません。相模川の催しからの帰りで急激に体調を崩したことまでは様々な記録で一致しているのですが、死因は様々です。源頼朝の死因についてよく知られているのは落馬説ですが、他にも興味深い死因もあります。頼朝の死因として記録に残っているのは、
- 暗殺説
- 誤認殺傷説
- 糖尿病説
などです。
源頼朝の墓の場所は白旗神社
源頼朝の墓は鶴岡八幡宮の境内にある白旗神社にあります。鶴岡八幡宮の場所は神奈川県の鎌倉市雪ノ下にあり、鎌倉八幡宮という名前でも知られています。鶴岡八幡宮は三大八幡宮にも数えられるほど有名です。源頼朝に興味がある方は是非鶴岡八幡宮を訪れてください。
まとめ
いかがでしたか?今回は源頼朝の生い立ちから死因までを簡単な年表を使って紹介してきました。源頼朝の死因は落馬説がよく知られていますが、歴史書によって様々な死因が書かれていて確実な死因は不明です。
他の記事でさらに詳しく源頼朝のエピソードをを紹介するので、是非そちらも参考にしてください。
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