【源頼朝】とは何者?北条政子との馴れ初めや、平氏を滅ぼし鎌倉幕府を開いたエピソードについて説明します

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源頼朝が何をした人かと聞かれると、「鎌倉幕府を開いた人!」と答えること人が多いのではないでしょうか。平家を滅ぼして鎌倉幕府を開いた源頼朝については、様々なエピソードが残っています。源頼朝が成功し、鎌倉幕府が続いたのは北条政子の努力があったからです。

今回は源頼朝と北条政子の馴れ初めを中心に、鎌倉幕府のエピソードについて紹介していきます。源頼朝と北条政子との馴れ初めは、今の私達でも羨ましくなるような純愛談として知られているのです。まずは源頼朝と北条政子が知り合った場所から紹介していきます。

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源頼朝と北条政子の馴れ初めは?

2人が出会った場所は、源頼朝の流刑地

伊豆国の地図の写真

出典画像:wikipedia

源頼朝が北条政子と出会った場所は、伊豆国です。源頼朝は父の源義朝が平治の乱で敗れた後、平氏によって殺されそうになりました。しかし源頼朝は当時たった13歳でした。平清盛の義母である池禅尼が「こんなに幼い子供を殺すなんて可哀想」と平清盛に源頼朝の処刑を取りやめるように嘆願しました。そのことがあり、源頼朝は死刑ではなく伊豆の地に流刑となったのです。この伊豆地方で豪族として力を持っていたのが北条政子の父、北条時政でした。しかも北条時政はもともと源頼朝の監視役だったのです。

流刑とは、罪人を辺境や離れ島などに追いやる刑です。
日本では佐渡や隠岐、伊豆大島などが主な流刑地となっていました。

源頼朝と北条政子には様々な馴れ初めがある

北条政子の絵の写真

出典画像:wikipedia

 

源頼朝と北条政子のエピソードは、『吾妻鏡』、『曽我物語』、『源平盛衰記』などに記録されています。それぞれの書物によって記録が少しずつ異なるので、この段落ではこの3つの書物に書かれている2人の馴れ初めについて紹介していきます。

吾妻鏡説

吾妻鏡の写真

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吾妻鏡(あづまかがみ)は鎌倉時代に書かれた日本の歴史書です。吾妻鏡には、源頼朝と北条政子の馴れ初めも記載されています。この書物によると、源頼朝と北条政子は北条時政が仕事で京都に出向いているときに恋仲になったようです。北条政子の父、北条時政は最初2人の婚姻に反対していました。しかし政子の頼朝を慕う心に根負けして、時政は婚姻を認めることになります。時政は長女の北条政子が源頼朝の妻となったことで、重要な彼の支援者になったのです。

曽我物語説

曽我物語の絵の写真

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曽我物語は鎌倉時代初期に起きた曽我兄弟の仇討ちを主題とした軍記物語です。様々な逸話が記録されているこの書物にも、源頼朝と北条政子の馴れ初めが記されています。

曽我物語によると、政子と頼朝の恋のきっかけは政子の妹が見た夢だとされています。ある日政子の妹は、日月を掌につかむという夢を見ました。妹が自分が見た奇妙な夢について政子に話すと、それは禍をもたらす夢だから自分にその夢を売りなさいと助言しました。そして、妹は政子に自分が見た夢を素直に売ったのです。しかし政子が妹から買った夢は吉夢で、政子はそのことを知っいて妹の夢を買ったのです。そして妹の吉夢を買ったおかげで、政子は頼朝と結婚したとされています。

軍記物語とは、鎌倉時代から室町時代にかけて書かれたものです。主に歴史上の合戦などを題材にしていますが、説話なども含まれています。

源平盛衰記説

源頼朝の絵の画像

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源平盛衰記も、軍記物語の1つです。源平盛衰記には、源頼朝と北条政子の馴れ初めがこう書かれています。北条時政は頼朝と政子の関係を知って、平家への聞こえを恐れて政子を頼朝ではなく山木兼隆と結婚させようとしました。時政の策略で政子は山木の所へ嫁入りさせられそうになります。しかし政子は屋敷を独りで逃げ出して山を越え、頼朝の所に向かいました。

その政子の根性に時政が負け、2人は晴れて結婚することができたとされています。美談としてよく知られているこの話は、残念ながら物語上の創作だと言われています。

鎌倉幕府を開いた後も頼朝は政子に支えられていた

頼朝が鎌倉幕府を開くことができたのも、北条政子のおかげ

北条氏の家紋の画像

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頼朝が挙兵して平家を滅ぼすことができたのは、北条時政の力をかりることができたからです。北条政子との結婚がなければ北条時政の協力を得ることができず、源頼朝が平氏を滅ぼすことも、征夷大将軍になって鎌倉幕府を開くこともできなかったと考えることができます。平氏を滅ぼした後、頼朝の弟である源義経を匿っていたという罰で奥州藤原氏も滅ぼした彼は、その権力を確かなものにしました。

頼朝は幕府の基盤がやっと固まったところで死亡します。頼朝の死後は北条氏が幕府の権力を握ったため、それを良しとしなかった後鳥羽上皇が承久の乱を起こします。承久の乱が起こったことで動揺した御家人達に北条政子がかけた有名な言葉がこちらです。

頼朝公の恩は山よりも高く、海よりも深いものです。しかし裏切り者の密告によって上皇から不当な綸旨が出されました。今こそ頼朝公の恩に応えなさい。ただし、院の側に付きたい者は今ここで申し出なさい。
この言葉に感銘を桁御家人たちのおかげで、幕府は承久の乱に勝利します。鎌倉幕府が頼朝の死後に続いたのも、北条政子のおかげだったのです。

まとめ

いかがでしたか?今回は源頼朝と北条政子の馴れ初めを中心に、鎌倉幕府を開いた後のエピソードを紹介しました。源頼朝と北条政子の馴れ初めは様々な歴史書でも描かれています。そして、源頼朝が平家を滅ぼして鎌倉幕府を開くことができたのも北条政子の力があったからだと分かりました。

他にも源頼朝と北条政子には様々なエピソードが残っています。興味がある方は是非源頼朝と北条政子のエピソードも調べてください。

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