【足利義昭】室町幕府滅亡 追放の理由やエピソードを詳しく解説!

室町幕府第15第将軍・足利義昭。織田信長に追放された人物、室町幕府最後の将軍として有名な人物です。

織田信長の影に隠れてしまうことの多い足利義昭ですが、彼はなぜ織田信長によって京都から追放されてしまったのでしょうか。またなぜ、室町幕府は滅亡を迎えてしまったのでしょうか。

今回は足利義昭の生涯と、織田信長から追放された理由についてご紹介いたします。

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足利義昭の生い立ち

第12代将軍・足利義晴の次男として誕生、その後、出家し「覚慶」と名乗る

足利義昭は室町時代後期にあたる天文6年(1537年)11月13日、室町幕府第12代将軍・足利義晴と近衛尚通の娘・慶寿院の次男として誕生しました。同母兄には後に第13代将軍となる足利義輝がいました。

足利義晴足利義晴の肖像画出典画像:Wikipedia

天文11年(1542年)11月20日、まだ5歳の義昭(幼名・千歳丸)は兄である足利義輝と跡取り争いを避けるため、または興福寺との結びつきを強めるため母方の祖父である近衛尚通と親子関係を結び、興福寺に入りました。この時、「覚慶」と名乗っていたとされています。

出家し、仏門に入った義昭はこのまま「覚慶」と名乗り、僧侶として生涯を終えるはずでした。

足利将軍家では兄弟間での跡取り争いを避けるために嗣子以外の男子は出家することが慣習となっていました。そのため義昭もその慣習に従い、出家したのでした。

足利将軍家の当主になることを宣言

天文15年(1546年)12月、兄の足利義輝がわずか11歳にして父・足利義晴から将軍職を譲られます。

足利義輝足利義輝の肖像画出典画像:Wikipedia

11歳にして第13代将軍となった兄の足利義輝でしたが、永禄8年(1565年)5月、足利義輝は母・慶寿院、弟・周暠(足利義晴の三男)とともに松永久通、三好三人衆によって暗殺されてしまいます。これは永禄の変と呼ばれ、この時、覚慶(足利義昭)も束縛され興福寺に幽閉されることとなりました。

兄の義輝亡き後、次期将軍として有力視されたのは弟である覚慶でした。しかし、松永久通、三好三人衆は従兄弟の足利義栄を次期将軍にしようと擁立し始めます。

興福寺で幽閉されていた覚慶でしたが、同月7月28日には兄・義輝の側近であった一色藤長、和田惟政らによって救出され、伊賀国に脱出した後、近江国甲賀郡にある和田城で保護されることとなります。

覚慶はこの和田城で兄・義輝亡き後足利将軍家の当主になることを宣言したのでした。

足利義昭
よし!足利将軍家の当主になるぞ!

覚慶は足利将軍家の当主になることを宣言すると、都からほど近い野洲郡矢島村(現在の守山市矢島町)を拠点とします(矢島御所)。この時、覚慶は上杉謙信や畠山高政に室町幕府の再興に協力するよう要請していたとされています。

還俗し「覚慶」から「足利義秋」に改名

永禄9年(1566年)2月17日、覚慶は足利将軍家を再興するため還俗し「覚慶」から「足利義秋」に名を変えます。

還俗とは1度出家した者が再び俗人に戻るということです。

矢島御所において、上杉謙信や河内国の畠山高政、能登国の守護であった畠山義綱と連絡をとり、上洛の機会をうかがっていました

この頃、義秋(足利義昭)と近江国の守護で義秋の上洛に非常に積極的であった六角義賢、そして和田城主である和田惟政は、敵対していた浅井氏、織田氏、斎藤氏、または武田氏・上杉氏・後北条氏らを和解させ、上洛に協力させようと考えていました。

足利義昭
敵対する勢力を和睦させ、上洛に協力させよう!

そのため実際に近江国の守護・六角義賢は和田惟政に命じ浅井氏と織田氏の和睦のために織田信長の妹・市と浅井長政の婚姻に関わる、信長と斎藤龍興を説得し和解に持ち込むなどの働きを見せました。

次々と敵対する勢力を和睦に持ち掛けた義秋の働きを見て三好三人衆の三好長逸は、矢島御所に攻撃を仕掛けてきましたが親衛隊の働きもあり、追い返すことに成功しました。

六角義賢六角義賢の肖像画出典画像:Wikipedia

なかなか上洛することができず

六角義賢の働きもあり、織田信長は義秋の上洛に協力すると約束し、兵を上洛させようとしましたが、永禄9年(1566年)8月、斎藤龍興が尾張国を攻めてきたため、織田軍は尾張国に一時撤退を余儀なくされます。

またこの頃になると、義秋の上洛に積極的であったはずの六角義賢が三好三人衆に説得され、三好三人衆に寝返ってしまったため、義秋は妹婿であった武田義統を頼り、矢島から若狭国へと移りました。

織田信長出典画像:Wikipedia

翌月の9月になると若狭国から越前国の朝倉義景のもとに移り、朝倉義景に上洛の協力要請を行います。しかし、朝倉義景は上洛要請を渋り、義秋は越前国に長期間滞在することとなりました。

義秋は上杉謙信も頼りにしていましたが、この頃上杉謙信は武田信玄との対立や本庄繁長の反乱などで忙しく、上洛に協力するほどの余裕はありませんでした。

足利義昭
なかなか上洛できない…

とうとう従兄弟の足利義栄が第14第将軍となってしまう

第13第将軍であった兄の義輝亡き後、義秋が次期将軍になれる可能性は高いものの、対抗馬として従兄弟の足利義栄がいました。しかし、義輝の弟であるがために圧倒的に義秋は有利な環境にいたのです。

それにもかかわらず、なかなか上洛できない義秋に対し三好三人衆が擁立する従兄弟の足利義栄は京都の実質的支配者となり、永禄11年(1568年)2月8日、将軍宣下を受け第14第将軍となりました。

足利義栄足利義栄の肖像画出典画像:Wikipedia

義昭に改名する

なかなか上洛しないがために従兄弟の足利義栄に将軍職を奪われた義秋。そんな義秋は永禄11年(1568年)4月15日、「義秋」の「秋」という文字は不吉であると「義秋」から「義昭」に改名します。その後、朝倉家の家臣・明智光秀に仲介され、義昭は尾張国の織田信長のもとへと移りました。

将軍に就任

永禄11年(1568年)9月、義昭は織田信長軍と浅井長政軍に警護されながら上洛に踏み込みます。上洛途中、六角義賢の攻撃もありましたが、何とか上洛を果たすことができました。

無事京都に到着した義昭を見て三好三人衆の勢力は京都から撤退を図ります。義昭が上洛を果たした数日後、第14第将軍であった従兄弟の足利義栄が病によって亡くなります。これによって義昭は10月18日、将軍宣下を受け第15代将軍に就任することとなりました。

足利義昭
やっと上洛、将軍に就任!

本圀寺の変

将軍となった義昭は兄・義輝の暗殺、足利義栄の将軍襲職に関わった近衛前久を追放し、二条晴良を関白職に復職させます。その他にも細川昭元や畠山昭高、二条昭実の安堵を図るなどし、政権の安定化を目指しました。

幕府の機能を再興させた義昭は当初、本圀寺を仮御所としていましたが、その本圀寺が永禄12年(1569年)1月5日、三好三人衆によって襲撃されます(本圀寺の変)。義昭は兄・義輝と同様に三好三人衆によって殺害されるかと思われましたが、浅井長政や池田勝正、和田惟政、三好義継らの奮戦によって命を守ることができました。

その後、義昭は織田信長に命じ烏丸中御門第(旧二条城)を整備させ、ここを拠点とします。

織田信長との対立

烏丸中御門第を拠点に幕府を再興した義昭は、織田信長の功績を称え「室町殿御父」という称号を与えました。さらに織田信長は和泉一国の支配を望んでいたため義昭は織田信長を和泉守護に就任させます。この時、織田信長のみならず義昭は池田勝正や畠山高政、三好義継らにも恩賞を与えました。

織田信長に恩賞を与えた義昭でしたが 天下統一を目論む織田信長 幕府再興を願う義昭 の考え方のズレから関係はこじれはじめるようになります。

織田信長
天下統一を目指すぞ!
足利義昭
いやいや、幕府の再興だ!

両者の関係悪化は止まらず、永禄12年(1569年)1月14日、織田信長は義昭の将軍権力を制約するため「殿中御掟」と呼ばれる9か条の掟書を義昭に突きつけました。この掟書を承諾した義昭でしたが、さらに永禄13年(1570年)1月にはその「殿中御掟」に5箇条が追加されることとなります。

信長包囲網の形成

両者の関係は修復不可能となり、織田信長に不満を抱いた義昭は元亀2年(1571年)頃から上杉謙信武田信玄毛利輝元六角義賢に反織田信長になるよう御内書を送り始めました。つまり義昭は武田氏や上杉氏、毛利氏などと手を組み、信長を包囲しようとしたのです。(信長包囲網)

織田信長との講和

元亀3年(1572年)10月、織田信長から17条の意見書が送られてきます。この意見書は義昭に対する信長の意見が長々とつづられたもので、いわば足利義昭に対するダメ出しが記されたものです。この意見書がきっかけとなり、義昭は信長に対し挙兵を開始しました。

元亀4年(1573年)正月、織田信長は自身の子供を人質として義昭に和睦を試みますが、義昭はこの和睦に応じませんでした。和睦に失敗した織田信長は知恩院に陣を敷くと、義昭は居城である烏丸中御門第に籠り、信長軍の攻撃に抵抗します。

織田信長は再び和睦を義昭に要請しましたが、義昭はこれに応じることはありませんでした。そのため、ついに織田信長は義昭が立てこもる烏丸中御門第を包囲し圧力をかけ始めたのでした。

しかし、織田信長は義昭を攻めようとはせず、朝廷に義昭との仲裁を頼み込みます。それを受け朝廷は勅命を出し、結果、織田信長と義昭は講和することとなりました。

織田信長に降伏

織田信長と講和し槇島城に移った義昭でしたが、元亀4年(1573年)7月3日、講和を破棄し槇島城から織田信長に挙兵します。しかし7月18日になると織田信長軍によって槇島城は壊滅状態となり、義昭はしぶしぶ降伏することとなりました。

槙島城記念碑出典画像:Wikipedia

京都から追放され、室町幕府は滅亡を迎える

織田信長に降伏した義昭はその後、織田信長によって京都から追放されてしまいます。義昭が京都から去ったあと、信長は天下人として権力を持つようになりました。

一般的に義昭が京都から追放されたことで室町幕府は滅亡したとされていますが、京都から追放された後も義昭は将軍職を解官されておらず、将軍としての権威は持ったままでした。

織田信長によって追放された理由を簡単に

足利義昭は初めから織田信長と対立していたわけではありません。

なかなか上洛できずにいた足利義昭は織田信長軍に警護され上洛を果たすことができた後、将軍になることとなったのですから、織田信長には感謝していたのです。さらに、織田信長に烏丸中御門第(旧二条城)を整備してもらうなど、織田信長との関係性は非常に良好でした。

非常に良好な関係を築けていた両者でしたが、元亀3年(1572年)10月、織田信長から「17条の意見書」と呼ばれる意見書が送られてきました。この意見書には

  • 織田信長に対し友好的な感情を持つ者を不当に扱っているそうで、彼らは迷惑しています。どういったおつもりでそのような扱いをするのですか?

  • 諸国から金銀を徴収しているにも関わらず、朝廷や幕府のために使用されないのはなぜなのでしょうか?

  • 昨年の夏、兵糧庫の米を売り金銀に変えたという話を聞きました。将軍が商売をするなんて聞いたことがありません。足利義昭様のやり方には驚いてしまいました。

といった織田信長の意見が記されており、いわばダメ出しのようなものだったのです。

この意見書を受け取った足利義昭は織田信長に対し苛立ちをみせ、両者は対立関係となりました。

しかし、実際には足利義昭に対する世間の評価は悪く、織田信長は単純に改善点を報告しただけとされています。つまり、足利義昭を怒らせるために意見書を送ったわけではないということです。

織田信長の指摘に怒りを見せた足利義昭は、信長包囲網を形成し織田信長と対立を深めようとしました。こうして両者は交戦することとなりますが、織田信長は朝廷に足利義昭との仲裁を頼みこみ、これを受け朝廷が両者の間に入り足利義昭と織田信長は講和することとなったのでした。朝廷に仲裁を頼み込んだのですから、はじめから足利義昭を攻めようと考えていた訳ではなさそうです。

しかし、足利義昭は講和を破棄し再び挙兵、結果足利義昭は織田信長に降伏し京都から追放されることとなったのでした。

もともとは仲が良かったものの、織田信長が意見書を送ったがために関係性はこじれた。しかし、織田信長は足利義昭を攻める意志はなかった。という考え方がある一方で、 もとから足利義昭と織田信長の考え方は違ったので、天下統一の邪魔な存在となった足利義昭を織田信長は攻めた。 といった考えがあります。

追放後は各地を転々とする

京都から追放された義昭はいったん枇杷荘(現在の京都府城陽市)に留まりましたが、その後は三好義継のいる河内若江城に移ったとされています。その後、堺に移り、天正2年(1574年)には紀伊国の興国寺に移りました。ついで田辺の泊城、天正4年(1576年)には毛利輝元を頼り備後国の鞆へと移ります。

秀吉が関白太政大臣となり、「関白・秀吉、将軍・義昭」の時代が続く

義昭が備後国の鞆に滞在していた天正10年(1582年)6月2日、宿敵である織田信長が明智光秀によって殺害されます(本能寺の変)

「本能寺焼討之図」錦絵「本能寺焼討之図」出典画像:Wikipedia

義昭はまだ上洛を望んでいたため、織田信長亡き後、毛利輝元に上洛の協力を要請しました。そんな毛利輝元が天正11年(1583年)、羽柴秀吉に臣従し天正13年(1585年)7月には羽柴秀吉が関白太政大臣となりました。

義昭は信長によって京都から追放されたものの、次期将軍をまだ決めていなかったためまだ将軍ではありました。そのため、関白・秀吉、将軍・義昭という時代は約2年半ほど続くこととなります。

羽柴秀吉豊臣秀吉肖像画出典画像:Wikipedia

秀吉が天下統一を果たす

まだ将軍としての権力を保持していた義昭は羽柴秀吉と対立していた島津義久に羽柴秀吉との和睦を勧めます。また天正15年(1587年)4月にはまたもや島津義久に羽柴秀吉と和睦するよう勧めました。

こうした義昭の働きもあり、島津義久は秀吉に降伏し、秀吉は天下統一を果たすこととなりました。(九州平定)

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足利義昭の最期

秀吉が天下統一を果たした天正15年(1587年)10月、義昭は秀吉に帰還を許され京都に帰還することとなりました。

天正16年(1588年)1月13日には将軍職を辞し「昌山(道休)」と名を変え出家します。晩年は秀吉の御伽衆、つまり秀吉の良き話し相手を務めていたとされています。

その後、慶長2年(1597年)8月、義昭は61歳で大阪で亡くなりました。

まとめ

足利義昭の生涯と、京都から追放された経緯、理由についてご紹介いたしました。

京都から追放された後、足利義昭がどのように過ごしていたのかはあまり知られていませんが、実は京都から追放後も将軍の権力を維持し続けていたのです。十数年ぶりに京都に帰還した足利義昭はその後、豊臣秀吉の話し相手となっていたとされています。

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