藤原良房とは承和の変、応天門の変を経て、皇族以外の人間で初めて摂政となった人物です。それまで、摂政は天皇の子供や両親、兄弟などがするものでした。しかし、皇族ではない藤原良房が摂政となったことで、藤原良房亡き後も、藤原良房の子供たちが次々と摂政となっていくこととなります。ちなみに、藤原良房の養子・藤原基経は日本史上初の関白となった人物です。
今回はそんな藤原良房の生い立ちや「承和の変」、摂政となった経緯や養子・藤原基経についてご紹介いたします。
目次
藤原良房の生い立ち
藤原良房は平安時代の延暦23年(804年)藤原冬嗣と藤原真作の娘・美都子の次男として誕生したとされています。父親である藤原冬嗣は第52代天皇・嵯峨天皇から非常に信頼された人物で、左大臣の地位が与えられていました。藤原良房が19歳となった弘仁14年(823年)嵯峨天皇の皇女・源潔姫を嫁に迎えます。
天皇の娘が皇族や王族以外の身分のもとに嫁ぐことは降嫁と呼ばれており、当時、天皇の娘が降嫁することは禁じられていたため、源潔姫の降嫁は前代未聞の出来事でした。
淳和天皇の蔵人に就任
弘仁14年(823年)4月16日、嵯峨天皇は大伴親王(淳和天皇)に譲位し、これによって即位した大伴親王は淳和天皇となりました。
淳和天皇が即位すると、藤原良房は天皇の秘書的役割である蔵人に就任します。藤原良房には妹・順子がいたのですが、この妹は皇太子・正良親王(後の仁明天皇)の妃となり、道康親王(後の文徳天皇)を出産しました。
藤原良房は天長7年(830年)頃からの正良親王(後の仁明天皇)の身の回りの世話をする春宮坊に就任していたこともあり、正良親王(後の仁明天皇)と藤原良房の関係は非常に良好であったとされています。また嵯峨上皇とその皇太后・橘嘉智子からも大変信頼されていたため、藤原良房は人間関係に困ることはありませんでした。
昇進を次々と果たす
天長10年(833年)淳和天皇は嵯峨上皇の息子・仁明天皇に譲位すると退位します。仁明天皇の時代に入ると、藤原良房は仁明天皇の父である嵯峨上皇から信頼されるようになり、昇進を次々と果たしました。
- 天長10年(833年)仁明天皇の即位に伴い従五位上・左近衛少将兼蔵人頭に就任
- 同年末までに従四位下・左近衛権中将にまで一気に昇進
- 承和2年(835年)従三位・権中納言に就任
- 承和7年(840年)中納言に就任
承和9年(842年)正月になると、藤原良房は宮中の警護などを担う右近衛大将に就任します。この右近衛大将は非常に名誉ある職であったとされています。
承和の変
当時、淳和上皇の皇子・恒貞親王が皇太子としてたてられていました。しかし、承和9年(842年)7月、嵯峨上皇が崩御すると、皇太子としてたてられていた恒貞親王は承和の変によって廃されることとなります。
承和の変とは
承和の変とは簡単に説明すると、承和7年(840年)淳和上皇が崩御、承和9年(842年)7月嵯峨上皇の崩御を受け、次期天皇を誰にするかといった皇位継承問題です。
淳和上皇らが擁立する恒貞親王(淳和上皇の皇子)と藤原良房・仁明天皇らが擁立する道康親王(後の文徳天皇)によって皇位が争われました。
恒貞親王(淳和上皇の皇子)
道康親王(後の文徳天皇)
皇位が争われる中、次期天皇を恒貞親王にしようとする 恒貞親王の側近・伴健岑と橘逸勢 は恒貞親王とともに東国で挙兵し、新たな国を作る。といった計画を打ち出しました。

しかし、この計画は仁明天皇に密告されることとなり、結果、側近・伴健岑と橘逸勢は流罪、事件に関与していなかった恒貞親王も責任があるとして皇太子の座を廃されることとなったのです。

これら一連の事件が「承和の変」と呼ばれるもので、承和の変の後、藤原良房が擁立していた 道康親王(後の文徳天皇)が皇太子にたてられ、また藤原良房は大納言に昇進することとなりました。
文徳天皇の即位と崩御
藤原良房は「承和の変」後、ますます朝廷内で発言権を持つようになり承和15年(848年)には右大臣に昇進しました。嘉祥3年(850年)藤原良房が擁立していた道康親王が即位し文徳天皇となります。藤原良房は妻・源潔姫との間に誕生した明子を文徳天皇の女御として入内させると、文徳天皇と明子との間に皇子・惟仁親王(後の清和天皇)が誕生しました。
こうして皇子の祖父となった藤原良房は、その立場を利用し権力を手にするため、わずか8か月の惟仁親王を立太子させ、無理やり皇太子とさせます。わずか8か月で皇太子となるのは前代未聞の出来事でした。天安2年(858年)文徳天皇が崩御します。
清和天皇の即位
そのため文徳天皇の息子である惟仁親王が9歳で即位し、清和天皇となりました。この時まだ清和天皇は9歳であり、政治活動などできるはずがありません。そのため、祖父にあたる藤原良房が元服を迎えるまで清和天皇の政治活動を後見したとされれいます。藤原良房は清和天皇が元服を迎えると政治主導権を清和天皇に返しました。
応天門の変の勃発
貞観8年(866年)平安京内の天皇の住まいである大内裏の応天門が放火されるといった事件が勃発します。この事件は「応天門の変」と呼ばれています。
放火事件があった当初、藤原良房とライバル関係にあった 大納言・伴善男 は

と告発しました。この左大臣の源信とは藤原良房の妻・源潔姫の異母兄弟にあたる人物で、伴善男は藤原良房を貶めるためにこのような密告をしたのです。これに対し藤原良房は

と返します。この藤原良房の進言によって源信は放火の罪を免れることとなり、結果、密告をした伴善男に放火の疑いがかけられ、有罪となり流罪に処されることとなりました。
皇族以外で初めて摂政に就任
こうしてライバル・伴善男を排除することができた藤原良房は貞観8年(866年)8月19日、清和天皇から「摂行天下之政」という詔が発せられます。これは天下の政治は清和天皇に代わって藤原良房に任せたという意味で、日本で初めて、皇族以外の人間による摂政が行われることとなりました。
摂政とは
摂政とは天皇が幼かったり、女性であったり、病弱であるといった理由から政治活動を行えない場合に天皇に代わり、政治活動を行う役職のことをさします。非常に需要な役職でるため、これまで天皇の後継者や両親、兄弟などが行っていました。しかし、貞観8年(866年)8月19日、藤原良房は清和天皇から摂政をするように命じられたのです。皇族ではない藤原良房が摂政となったことを機に、以降、摂政に外戚となった藤原北家が就任するようになりました。
これによって藤原氏が台頭するようになっていくため、皇族ではない藤原良房が摂政に命じられたことは藤原氏にとって良いきっかけとなったのでした。
摂政と関白の違い
摂政は天皇が幼い、病弱といった理由で政治活動ができない場合に、代行して政治活動を行う役職のことをさします。
一方、関白は成人した天皇の政治活動の補佐を行う場合の役職です。摂政とは異なり、最終的な決断は天皇にあります。つまり、摂政は完全に政治主導権を握る。一方、関白は天皇の政治活動の補佐を行うが、決断権は天皇にある。ということとなります。
藤原良房の最期
摂関を開始した藤原良房は律令の補助法令である「貞観格式」を完成させるなどしましたが、貞観14年(872年)9月2日、69歳で亡くなりました。
養子・藤原基経
藤原良房には養子・藤原基経がいました。この藤原基経は藤原長良と藤原総継の娘・乙春の三男として誕生しましたが、叔父にあたる藤原良房は男子の子供がいなかったため藤原基経を養子に迎えたのです。
藤原良房が日本史上初の皇族以外の人間として摂政となったのに対し、藤原基経は日本史上初の関白となりました。
まとめ
いかがでしたか?藤原良房は承和の変、応天門の変を経て、皇族以外の人間で初めて摂政となった人物でした。藤原良房が皇族以外の人間として初めて摂政となったことをきっかけに、その後は藤原北家によって摂政・関白が行われることとなります。藤原良房亡き後も藤原良房の子孫らが摂政・関白となっていくのでした。
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