平安時代初期の政変「承和の変」は【藤原良房】の陰謀だった!?他に関係の深い人物は?

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承和の変とは、平安時代初期に起こった政変です。淳和天皇、嵯峨上皇亡き後の後継者を巡って仁明天皇の息子・道康親王(後の文徳天皇)、 淳和上皇の息子・恒貞親王が対立しました。結局、恒貞親王の側近・ 伴健岑と橘逸勢が東国に逃れ、新たな国を作るといった計画が仁明天皇に密告されることとなり、事件に関わっていないとされながらも、責任を取る形として恒貞親王は皇太子を廃されることとなりました。

この事件の結果、嵯峨上皇などから信頼されていた藤原良房と呼ばれる人物は昇進を重ね、後に人臣初の摂政に上り詰めるため、承和の変は藤原良房による陰謀事件なのでは。と考えられいます。今回はそんな承和の変の経緯や内容、関係の深い人物などについて分かりやすくご紹介します。

 

承和の変とは

承和の変とは、平安時代初期にあたる承和9年(842年)に起こった政変です。承和7年(840年)淳和上皇が崩御、承和9年(842年)7月嵯峨上皇が崩御したことによって後継者を巡り 道康親王(後の文徳天皇)を擁立する藤原良房・仁明天皇、 恒貞親王を擁立する淳和上皇らが対立しました。

対立の結果、皇太子であった 恒貞親王(淳和上皇の皇子) は廃されることとなり、 道康親王(後の文徳天皇)が皇太子に建てられ、道康親王(後の文徳天皇)を擁立していた藤原良房は大納言に昇進となりました。

 

承和の変を分かりやすく解説

ではなぜ承和の変は起きたのでしょうか。ここで承和の変が勃発した経緯や内容についてご紹介します。

嵯峨天皇の譲位

弘仁14年(823年)第52代天皇・嵯峨天皇は弟である淳和天皇に譲位します。これまでの歴代天皇はこのような順番となっていました。

平城天皇(嵯峨天皇の兄)→嵯峨天皇→淳和天皇(嵯峨天皇の弟)

平城天皇には息子・高岳親王がいましたが、薬子の変によって父親である平城上皇とともに失脚したため、皇位は継承されず、弟である嵯峨天皇に皇位継承されたのでした。

嵯峨天皇にも息子・正良親王(後の仁明天皇)がいましたが、この時まだ幼かったため、弟である淳和天皇に譲位したのでした。

嵯峨天皇の肖像画出典画像:Wikipedia

 

淳和天皇の即位

こうして嵯峨天皇に譲位された淳和天皇は第53代天皇となったのです。しかし、実は淳和天皇は天皇になることに対し非常に消極的であったとされ、これまでに臣籍降下を願い出たこともあったほどでした。

臣籍降下とは皇族という身分から離れ臣下の籍に降りること。

淳和天皇は将来、自分や息子である恒貞親王が後継者問題に巻き込まれることを避けたかったため、自身の即位に対し消極的であったとされています。そこで、天皇となった淳和天皇は次期天皇に自分の息子・恒貞親王ではなく兄である嵯峨上皇の息子・正良親王(後の仁明天皇)を指名しました。淳和天皇は後継者争いを避けるため、自身の子供を後継者に指名しなかったのです。

こうして、天長10年(833年)淳和天皇は嵯峨上皇の皇子・正良親王(後の仁明天皇)に譲位すると、正良親王(後の仁明天皇)は即位し、仁明天皇となりました。

 

仁明天皇の即位

仁明天皇は即位すると、皇太子に淳和上皇の息子・恒貞親王を立てました。せっかく淳和上皇は後継者争いに巻き込まれまいと自身の子供を後継者から外したのに、仁明天皇は淳和上皇の息子・恒貞親王を皇太子としてしまったのです。淳和上皇は、仁明天皇に対し

淳和上皇
後継者争いに巻き込まれたくないから、恒貞親王を皇太子にしないで!

と説得しますが権限はなく、結局、淳和上皇の皇子・恒貞親王は皇太子となってしまいました。その後は目立った争いもなく、約30年間は平和な治世であったとされています。

 

藤原良房の登場

藤原良房とは左大臣であった藤原冬嗣の息子です。承和の変で非常に関係の深い人物となります。

藤原良房の肖像画出典画像:Wikipedia

弘仁14年(823年)に嵯峨上皇の皇女・源潔姫と結婚し、天長3年(826年)には淳和天皇の秘書のような役割る蔵人に就任していた人物でした。また自身の妹・順子が嵯峨上皇の息子・仁明天皇の妃となり、道康親王(後の文徳天皇)が誕生します。藤原良房にとって道康親王(後の文徳天皇)は甥にあたる人物となります。

また藤原良房自身は仁明天皇の身の回りのお世話をする春宮亮と呼ばれる役職についていたため、非常に嵯峨上皇、仁明天皇と良好な関係を築いていました。そのため仁明天皇が即位した頃から、急速に藤原良房は昇進を果たすこととなり、朝廷内でも発言権を持つようになりました。

そこで、藤原良房は

藤原良房
甥である道康親王(後の文徳天皇)が即位すれば、権力を掌握できるのでは。

と考え始めます。そのため藤原良房は道康親王(後の文徳天皇)の皇位継承を望み始めるようになりました。藤原良房が道康親王(後の文徳天皇)を擁立しようとし始めたのに対し、後継者争いを避けたいと考える淳和上皇の皇子・恒貞親王と淳和上皇は、皇太子を辞退したい。と要求しましたが、嵯峨上皇によって却下されていました。

 

仁明天皇の息子・道康親王(後の文徳天皇)vs 淳和上皇の息子・恒貞親王

約30年間続いた平和な日々に終わりが見え始めます。承和7年(840年)淳和上皇が崩御したのです。その2年後の承和9年(842年)には嵯峨上皇が病を患い、いつ崩御してもおかしくない状態となりました。そのため朝廷内では仁明天皇の息子・道康親王(後の文徳天皇)淳和上皇の息子・恒貞親王どちらが次の天皇になるのか、天皇を決める動きが活発化し始めました。

こうして次期天皇の座を巡って 仁明天皇の息子・道康親王(後の文徳天皇)vs 淳和上皇の息子・恒貞親王 となったのでした。

道康親王(後の文徳天皇)
道康親王の肖像画出典画像:Wikipedia

恒貞親王

恒貞親王の肖像画出典画像:Wikipedia

 

後継者争いではじめに攻撃を仕掛けたのは 淳和上皇の息子・恒貞親王方 です。恒貞親王の側近である 伴健岑と橘逸勢 は、後継者争いを巡って恒貞親王の命に危機が迫っていると考え、恒貞親王を連れ東国へと逃げる計画を企て、東国で恒貞親王を天皇とし、新たな国を作ろうと考えたのでした。

東国とは主に関東地方のことを指します。都が京都にあったため、関東地方には天皇の力は及ぶことがなく、そのため都から遠い関東地方へと逃れました。

しかし、この計画は 仁明天皇に密告されることとなりました。その間にも嵯峨上皇の病状は悪化し、同年7月15日、崩御となりました。

 

結果

伴健岑と橘逸勢が企てた計画を知った仁明天皇の崩御から2日後、 伴健岑と橘逸勢 を逮捕し、2人は流罪となります。東国へ逃れるという計画に恒貞親王は関与しておりませんでしたが、仁明天皇は事件を起こした責任は恒貞親王にもあると判断し、責任を取らせる形で皇太子を廃したのでした。

その後、道康親王(後の文徳天皇)が皇太子となり、道康親王(後の文徳天皇)を擁立していた藤原良房は大納言昇進するのでした。これらの一連の流れが「承和の変」と呼ばれています。

藤原良房
道康親王(後の文徳天皇)が皇太子になったし、自分も昇進したし、万々歳!!

 

藤原良房による陰謀?

この事件において、恒貞親王に関係の深い人物が多くが処罰を受けることとなりました。しかし、 伴健岑と橘逸勢が企てた計画は非常に動機があいまいで、また計画は未遂に終わっているにも関わらず処罰を受けた者が非常に多い。

そして、藤原良房の望通りに道康親王(後の文徳天皇)が皇太子となっただけではなく、自身も昇進するなどしたため、「承和の変」は藤原良房による陰謀事件では。と考えられています。たしかに、道康親王(後の文徳天皇)の叔父である藤原良房はその後、権力を掌握し、
昇進を重ね、皇族以外の身分で初めて摂政となっているため、「承和の変」は藤原良房による陰謀事件では。と考えられるのもおかしくはありません。

 

まとめ

「承和の変」が起こった経緯や内容を分かりやすく解説しました。簡単にいうと、仁明天皇の息子・道康親王(後の文徳天皇)と淳和上皇の息子・恒貞親王による皇位継承を巡る対立です。恒貞親王の側近・ 伴健岑と橘逸勢が企てたクーデターが仁明天皇に密告されることとなり、事件に関わっていないとされながらも、責任を取る形として恒貞親王は皇太子を廃されることとなりました。

その後、道康親王(後の文徳天皇)が皇太子となり、藤原良房は昇進を重ねる結果となりました。伴健岑と橘逸勢が企てたクーデターは実行に移されず未遂となりましたが、多くの恒貞親王に関係の深い人物が処罰を受けることとなったため、この事件は藤原良房による陰謀だったのではと考えられています。

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