源氏一族の英雄【源義家】の伝説!源頼朝との関係についても解説

源義家は、5月5日の端午の節句で、兜や五月人形を飾りますが、それは源義家がモデルとなっているのが多いです。それは、源義家がとても勇敢で、武将の英雄として称えられていた為です。鎌倉幕府を築いた源頼朝も、源義家を敬っていました。

源義家が武将の英雄と称えられるのには理由があります。源義家の代表する衣川の戦いやその他、伝説を残し、また鎌倉幕府が始まる基盤を作ったとされています。そんな源義家は源義家の子の内紛の最中に亡くなってしまいます。そして源氏三代が同じ場所にお墓があります。

源義家がここまで称えられるには、一体何をしたのか、どんな伝説だったのか。
また、頼朝との関係や源義家の子がしたことやお墓まで、源義家の生涯を書いていきます。

源義家は何をした人?生い立ちについて(頼朝との関係)

源義家の画像

出典画像:Wikipedia

 

源義家は源頼義の長男として生まれました。山城国の石清水八幡宮で元服したことから、 八幡太郎 と呼ばれていました。ちなみに、幼名は不動丸または源太丸です。

源義家は、鎌倉幕府を開いた源頼朝と室町幕府を始めた足利尊氏の祖先にあたります。

源義家が活躍する2つの戦い・伝説

前九年の役

前九年の役 を正式名で言うと、奥州十二年合戦といい、1051年から1062年まで戦っていました。

東北地方の豪族 安倍氏との戦い

奥州(現在の秋田を除く東北地方)の豪族安倍氏は勢力が強く、そのうち朝廷に納めなければならない税を治めず、国司の命令にも背くようになっていきました。そこで、朝廷は源頼義に安倍氏を討ってこいと協力を仰ぎます。源義家は父の頼義に従い戦をします。

安倍貞任の画像

出典画像:Wikipedia

源頼義が率いる朝廷側は、当時の安倍氏の主将は安部頼時を討つ戦果をあげましたが、新しくボスになった頼時の息子、 安倍貞任との黄海合戦 では、朝廷側(源軍)が追い詰められてしまいます。まさに一進一退の戦いをしていました。

そこで出羽国(現在の秋田)で力のある 清原氏 の力を借りたおかげで、戦に勝ち、安倍氏が滅びる事になりました。苦戦した戦いではありましたが、安倍軍を滅ぼす功績により、源氏の地位を上げ、武家の名門一族として有名にすることになりました。

衣川の戦いでの、源義家と安倍貞任

衣川の戦い とは、朝廷側(源軍)が安倍軍の衣川の柵(現在の岩手県に位置する、安部軍の砦)を攻め立る戦の事です。その戦いで、安倍軍が柵を守るのを止め、撤退します。その時に逃げようとする安倍貞任と追い詰める源義家の有名なエピソードがあります。

逃げようとする安倍貞任に対し、源義家「敵に背を向けて逃げるのか?戻ってこい」と言うと、安倍は馬を止めます。
ここで有名な和歌交換をします。

義家「衣のたてはほころびにけり」
安倍「年を経し糸の乱れの苦しさに」とすぐ歌を返します。
現訳:
長い年月を経て糸の乱れがひどくなるように、長年に渡る作戦の乱れがひどいので衣の縦糸が綻びるように、衣川の館も崩れてしまった。

これは、源義家が衣川の柵衣類の縦糸をかけて詠んでいます。

 

源義家
もう衣川の柵も攻めて崩れてしまった

そして、すぐに安倍貞任は、糸のほつれをを軍の統率にかけて返答します。

安倍貞任 
衣も何年も着ると糸がほつれてくるように、軍の組織も長い戦では統率が乱れてしまう

源義家はすぐに返答した安倍貞任の歌の上手さに感動し、その場から安倍貞任を逃がします。義家は武勇に秀でている上に歌の才能も秀でています。このエピソードにより、源義家の優しさを讃え、武士の情けがあったと美談になります。

後三年の役

清原氏の内紛

前九年の役で安倍氏が滅び、勢力が強くなった清原氏が陸奥・出羽を牛耳っていました。

清原武則の孫、清原真衡は、当時武家として大きな力を持っていた源氏と平氏を政略結婚により繋がりを持ち、清原家の権力を握りました。

清原真衡は叔父にあたる吉彦秀武に無礼をし、それに怒った吉彦秀武を殺そうと軍を送ります。

その軍に、清原家衡と清衡に参戦するように命令します。ですが清原真衡の直系ではないからと、配下にされ不当な扱いを受けてきた清原家衡と清衡は吉彦秀武側に付き、清原真衡と対立します。

源義家の参戦

この内紛に源義家が参戦します。なぜ源義家が参戦するのかというと、清原真衡の養子息子の成衡と義家の娘が婚姻関係にあったからです。源義家が清原真衡側に付いたことにより清原家衡と清衡が負けてしまいます。ですが、対立していた清原真衡が急死してしまいます。

源義家は、清原家衡と清衡の二人に公平に土地を分け与えましたが、清原家衡が養子で血の繋がらない清原清衡と同じ領土に納得いかず、全て自分の土地にしたいと遺産相続争いが始まります。

1086年、清原家衡の襲撃で清衡は源義家に助けを求め、清原清衡に応戦することになります

初戦の沼柵で、義家撤退

軍の基地は防御力が高いので攻める方も高度な攻城戦が求められ、しっかりと戦略が必要でした。清原家衡は、沼柵という基地に立て籠もり義家の攻撃をかわし、清原家衡の攻撃力が強く、義家は敗北してしまいます。

2戦目の金沢柵で義家の伝説が生まれる

1087年2戦目は清原家衡は金沢柵で、清原清衡と源義家の軍を待ちかまえます。源義家が金沢柵に向かう途中、義家の目の前で雁が飛んで行きました。

後三年の役の雁の乱れに気付いた時の絵

出典画像:Wikipedia

雁の飛び立つ様子が乱れているのに気付いた義家は

源義家
雁が列を乱して飛んでいるのは、癌の近くに人がいる証拠だ。つまり伏兵が潜んでいる
と、伏兵に気付いたので、先手を取られることも無く敵兵を倒していきます。なぜ、雁の乱れで伏兵に気付いたかというと、 大江匡房から孫子の兵法を学んでいた のです。

匡房は、義家の事を「器量は賢き武者なれども、なお軍(いくさ)の道を知らず」とつぶやいたのを、義家本人に伝わってしまいます。ですが義家は怒り出すどころか匡房の弟子となり、兵法を教わったと言われています。

金沢柵で籠城作戦をとっていた清原家衡に対し、源義家は、兵糧攻めをして、家衡軍が敗北しました。

兵糧攻め=敵の食糧を補給できないようにして勢力を弱める作戦のこと。

義家の行動で源氏への信頼を高める

後三年の役でも勝利しましたが、朝廷はこの戦いは、国が依頼した戦いではないとして、朝廷から恩賞をもらうことはありませんでした。そこで源義家は、一緒に戦ってくれた部下の者たちに、 自分の財産で恩賞を与えます。その行動で、兵士たちは恩義を感じ、源氏への信頼を高めることになりました。

源頼朝との関係ー源義家のおかげで源頼朝が鎌倉幕府を創設出来た

鎌倉幕府が出来るきっかけとなったのは武家の戦いである、源平の戦いです。源頼朝率いる源軍は、石橋山の戦いで平氏の軍に敗北します。東国の武士たちは、後三年の役の恩賞の件で、源氏に恩義がありました。

源頼朝が兵力が必要になった時、多くの東国の武士が源軍に付き、兵力がすごく強くなりました。

そのおかげで、平氏と幾度となく戦って勝利し、鎌倉幕府を創設出来るようになりました。
源義家が後三年の役の恩賞に自分の財産を与え、部下の武士を大切にした行動が、子孫を助ける事に繋がります。

源義家の死没までとお墓

源義家のその後

源義家は 天下第一武勇之士 と称され、1098年には 武士で始めて院の昇殿を許さる ほどになります。

源義家に土地を持っている有力者から土地の寄進が相次ぎ、朝廷はそれを禁止する令を出すほど人気がありました。
生前の極位は 正四位下 で、1106年に亡くなります。

源氏三代の墓がある

 

源義家の墓

出典画像:Wikipedia

現在の羽曳野市にある河内源氏の菩提寺として建てた 通法寺跡 に源氏三代(源頼信・源頼義・源義家)のお墓が建てられました。源頼信・源頼義・源義家の本拠地が同じな為、羽曳野市は河内源氏発祥の地とも呼ばれています。

まとめ

いかがでしたか?源義家は武士でありながら、和歌が上手く、教養がありました。安倍貞任の歌の交わしも素晴らしいです。そして、匡房が戦の方法をわかっていないと批判にも受け入れ、匡房の弟子となり戦法を学んだりと謙虚さがあります。そして何より、一緒に戦ってくれた部下の武士の為に私財を分け与えるという行動には本当に素晴らしいと感動します。

その源義家の行動の全てが、多くの武士から信頼され、強い絆を結ぶことが出来ました。その強い絆が、東国の武士が頼朝に力を貸してくれて鎌倉幕府の創設に繋がっています。

源義家は本当に武力も優りますが、人間的にも素晴らしい人物だったと思います。

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