江戸幕府第8代将軍・徳川吉宗は幕府の財政を改善させるため享保元年(1716年)享保の改革と呼ばれる政策を行いました。
享保の改革の内容としては、幕府財政の再建を目的とした足高の制、上米の制、元文の改鋳、新田開発の奨励の他に、法の整備を行った公事方御定書の編成、江戸市中の行政改革となる目安箱の設置、風俗の取り締まりなどがあげられます。
今回は享保の改革で徳川吉宗がやったことを簡単にご紹介いたします。
目次
享保の改革とは
享保の改革とは、江戸時代中期の享保元年(1716年)、当時の江戸幕府第8代将軍・徳川吉宗によって行われた幕府の財政難に対する政策です。
徳川吉宗画像出典:Wikipedia
徳川吉宗の将軍就任まで
徳川吉宗が将軍に就任するよりも前から幕府は財政難に陥っていました。
徳川綱吉による財政政策
徳川綱吉画像出典:Wikipedia
戦が絶えない世の中が終わり、ある程度平和な世の中が訪れると人々は贅沢な暮らしをするようになりました。それでもまだ戦国の殺伐とした雰囲気をなくし、安心した世の中にしようと江戸幕府第5代将軍・徳川綱吉は「生類憐み令」を発令しました。
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この「生類憐み令」とは生類を憐れんだ趣旨の法令です。
例えば
- 鷹の献上を禁止
- 貝や鳥、海老などを生きたまま料理に使用してはならない
- 趣味としての魚釣りを禁止
などです。
そのほかにも、病馬を捨ててはならない、捨て子や病人は保護しなければならないなど社会的弱者を保護する法令もありました。
幕府の財政難を招く結果に
しかし、細かい法令であり、守れない者は処刑や流罪になるなど非常に厳しい法令であったため、庶民や武士の間に混乱が起こり、結果的に「生類憐み令」は幕府の財政難を招くこととなりました。
そのため

と評価されてしまいます。
徳川家宣による財政政策
徳川家宣画像出典:Wikipedia
その後、江戸幕府第6代将軍となった徳川家宣も幕府の財政難を改善しようと努めます。
当時、勘定吟味役であった荻原重秀は財政を立て直すため金の質を落として小判を増やしました。一時的に、幕府の財政は改善されたものの、結果的にインフレを招く結果となってしまいます。
インフレとは?
インフレとは物価の上昇が続くことで、通貨の価値が下がることです。例えば、今日みかん1個の価格が50円であったにも関わらず、翌日には1個の価格が100円になっている状態です。景気がよくなることでインフレは起こりやすくなります。しかし、収入が物価以上でなければ生活は苦しくなってしまいます。
新井白石がデフレを招く
インフレを招いた勘定吟味役の荻原重秀は、徳川家宣の側近である新井白石によって辞任させられることとなります。
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その後、徳川家宣の側近・新井白石は金の品質を落とした正徳金銀を作りました。デフレの解消、財政の改善に期待されましたが、急激に改鋳を行ったためにインフレに対しデフレを起こしてしまいます。
デフレとは?
一方でインフレに対し、物価の下落が続くことで、通貨の価値が上がることをデフレといいます。例えば今日、みかん1個の価格が100円であったのに対し、翌日、1個50円となっている状態です。物価が安くなることはいいことですが、物価が安くなることで商店などの売り上げは下がり、これによって給料が払えない、解雇せざるおえないなどの状況を招くこととなります。給料カットや解雇されることによって、人々の購買意欲は低下し、そうなることで商店などの売り上げはさらに減少してしまいます。
徳川家継による財政政策
徳川家継画像出典:Wikipedia
将軍・徳川家宣が亡くなり、徳川家宣の四男・徳川家継が7代将軍となると新井白石はまた側近として幕政を任されることとなりました。当時、将軍となった徳川家継はまだ幼かったため、幕政を主導しながら徳川家継の教育を行っていたとされています。
そんな幼い将軍・徳川家継は正徳6年(1716年)4月30日、8歳という幼さで亡くなります。
徳川吉宗が将軍に就任
就任しすぐに新井白石を解任
徳川家継が亡くなり享保元年(1716年)、8代将軍に就任した徳川吉宗はまず、これまで幕政を主導していたた新井白石や間部詮房を解任し、紀州藩から幕臣を選びました。
徳川吉宗が行った享保の改革
質素倹約をすすめる
財政再建を目指す徳川吉宗は、質素倹約をみなに進めました。
質素倹約を民衆や幕臣たちに進めるからには、自身が節約をしなければと
- 木綿の肌着以外は着用しなかった(鷹狩りの羽織や袴も木綿)
- 平日の食事は一汁一菜
- 食事は1日2食(朝ごはん、夕飯)
- 白米ではなく、玄米を食べる
- 魚や肉は控える
- 刀は金銀のものではなく、鉄と銅で作られたものを使用
と節約を行いました。

上米の制
しかし、節約を行っても幕府の財政を立て直すことはできませんでした。
そこで徳川吉宗は幕府の収入を増やすことを考えます。
当時、幕府にはいる収入とはお米で、とにかくこのお米の量を増やそうとしたのです。この政策は上米の制と呼ばれ大名に対し多くのお米を納めるよう指示しました。
石高1万石に対して100石の米を納めるよう指示したとされています。
参勤交代を短縮
多くお米を納めてくれた大名には、そのかわりとして参勤交代で江戸にいる期間を短縮させたのです。
この上米の制は幕府の増収に貢献することとなりましたが、享保15年(1730年)に廃止されることとなりました。
新田開発
江戸幕府の収入はお米です。当時、お米はただ食べるものだけではなかったのです。
多くのお米が幕府に入れば、幕府の財政はよくなります。そこで、徳川吉宗はお米を多く収穫するため新しく田を開くことをすすめました。

これまで農業用水として使用される湖沼や溜池、小川の水近くに新田は開かれていました。一方で増水や大洪水、築堤技術不足などの理由から大きな河の中下流域付近には田は開かれることはありませんでした。
新田開発を進めた徳川吉宗は、これまで避けられていた大きな河の中下流域付近に田を開くべく、井澤弥惣兵衛ら土木技術者を呼び、大河川の流れを堤防の中に閉じ込めることのできる技法を用い、大河川下流域付近一帯に新しい田を開発可能にさせます。
この新田開発の結果、幕府の財政は黒字となりました。
上米の制、新田開発はどちらもお米に関わる政策であり、ここから徳川吉宗は「米将軍」と呼ばれました。
足高の制
享保8年(1723年)6月、徳川吉宗は足高の制を施行します。
幕府の役職ごとに一定の役高(江戸幕府が幕臣に支給していた役職手当)を決め、役職に就任した者が家禄が役高よりも低い場合、在職中のみ不足している役高を補うといった制度です。
法律を整備、公事方御定書を作成
徳川吉宗は老中の松平乗邑、勘定奉行、寺社奉行、江戸町奉行などを中心に、幕府の法律、基本法を記した法典を編纂させます。
この法典は上下の2巻からなり、上巻では司法警察関係の基本法令81通、下巻では旧来の判例に基づいた刑事法令などを記しました。
この法典が編纂されるまでは、基本的に法を法を犯した者は死刑か追放刑かと極端なものでした。しかし、この「公事方御定書」にはこれまで通り、死刑や追放刑が定められていますが、中には法を犯した者が再び社会に復帰できるよう配慮された処罰が含まれました。これまでなかった更生という考えが反映されたものだったのです。
目安箱の設置
享保6年(1721年)徳川吉宗は町民や百姓などの不満や要望を知るため、目安箱を江戸城辰ノ口の評定所前に毎月2日、11日、21日の月3回設置しました。
目安箱に投書する際は住所・氏名を記入しなければならなかったとされています。回収された投書は徳川吉宗が自ら読み、意見や不満を取り入れました。
目安箱の設置によって
- 町医者の小川笙船が江戸の貧困を訴え、施療院の建設を要望したところ、徳川吉宗はこの要望を取り入れ小石川養生所が設置される
- 町火消(消防組織)が整備される
- 開発可能な地域の意見が新田開発の参考にされる
などが実現されました。
他にも…
元文の改鋳
岡忠相や萩生徂徠、老中・松平乗邑は徳川綱吉時代、萩原重秀が行った貨幣の質を落として通貨を増やすといった政策が、経済の安定に繋がると徳川吉宗にアドバイスしました。
このアドバイスをうけ、徳川吉宗は貨幣の改鋳を行いました。
相対済令
お金の貸し借りなどに関する訴訟は幕府は取り上げませんので、当事者でトラブルを解決してください。という法令です。
徳川吉宗が将軍に就任して以来、お金に関する訴訟が多くなっていたため奉行所の仕事が増えることとなりました。そのため、お金に関するトラブルは当事者同士で解決するように定めました。
漢訳洋書輸入緩和
これまで、洋書の輸入はキリスト教が日本に流入することを阻止するため禁止されていました。
しかし、学問が好きな徳川吉宗はキリスト教に関係のない書物なら輸入しても良いとしたのです。この時期から蘭学や国学が発達されたとされていますが、この洋書の解禁が発達の要因となったと考えられています。
また、洋書を解禁したことにより、港のある長崎を中心に蘭学ブームが起きたとされています。
大奥の減員
質素倹約をすすめる徳川吉宗は、当時4000人いた大奥を1300人まで減らし、財政の改善に努めました。
風俗の取締り
当時、近松門左衛門の人形浄瑠璃の影響で男女の心中(恋仲にある男女が一緒に自殺すること)が増えていました。これを減らすため、心中に失敗し生き残った男女を人通りの多い場所に晒すなどを行い、心中防止に努めました。
また公許の場所以外で売春を行うことを禁止、賭け事を禁止するなどを行いました。
廃止されていた鷹狩りを復活させる
鷹狩りとは飼いならした鷹を山に放って行う狩猟のことです。古墳時代から鷹狩りは行われていたとされ、戦国時代には織田信長、豊臣秀吉、徳川家康も好んで行っていました。
しかし、江戸幕府5代将軍・徳川綱吉は生き物を大事にしようと「生類憐み令」を発令します。これによって長く続いた鷹狩りは一時廃止されることとなりました。
徳川綱吉が亡くなると、将軍となった徳川吉宗はこの鷹狩りを復活させたのでした。
サツマイモの栽培をすすめる
徳川吉宗は蘭学者の青木昆陽にサツマイモの栽培研究を命じます。これは飢饉に備えてのことでした。
他にも朝鮮人参やなたね油、薬草の栽培の他にサクラやモモなどの植林を行いました。
享保の改革の影響
徳川吉宗が行った享保の改革は幕府財政を安定させたことから高く評価され、その後に起きた財政危機において参考にされることとなりました。
享保の改革を手本にした改革は1787年から1793年に行われた寛政の改革、1830年から1843年に行われた天保の改革とされ、享保の改革、寛政の改革、天保の改革は三大改革と呼ばれています。
享保の改革は高く評価される一方で、年貢増徴といった農民の負担が大きく強いられる政策が行われたこと、財政再建や物価対策を急ぐ余り一時しのぎとなる法令が多くあったことから、幕府と将軍の権威を弱める結果となったという見方もされています。
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