【徳川吉宗】の女好きな人生~正室・側室とのエピソードや大奥でのドロドロエピソードを探る!

徳川吉宗は江戸時代中期、江戸幕府8代将軍となった人物で、新田開発、目安箱の設置、公事方御定書の制定といった享保の改革を行いました。

享保の改革を行った人物として有名ですが、松平健さんが演じられた「暴れん坊将軍」としても有名です。今回は政策ではなく徳川吉宗の妻(正室)・理子女王や側室・久免との関係性、子供についてご紹介いたします。

また幕府の財政再建のためにたくさんの女性を解雇した大奥の整備についてのエピソードもご紹介いたします。

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徳川吉宗の簡単な生い立ち

徳川吉宗は貞享元年(1684年)10月21日、徳川御三家で紀州藩第2代藩主・徳川光貞の四男として誕生しました。

徳川御三家とは

徳川御三家とは徳川家の中でも、徳川将軍家(徳川幕府の征夷大将軍を世襲できる家)に次ぐ地位を持つ家のことをいいます。尾張徳川家、紀州徳川家、水戸徳川家が徳川御三家です。

徳川吉宗のひいおじいさんは、徳川幕府初代将軍となった徳川家康です。

徳川家康徳川家康肖像画画像出典:Wikipedia

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兄弟には

  • 長兄・徳川綱教
  • 次兄・次郎吉(早死)
  • 三兄・徳川頼職
  • 光姫
  • 栄姫
  • 育姫

がいました。

家老のもとで育てられる

徳川吉宗の母親・浄円院は紀州徳川家の召使でした。

当時、世の中では父親が高齢であると子供は元気に育たないといった迷信がありました。そのため徳川吉宗は家臣の家老・加納将監のもとで育てられることとなります。幼い徳川吉宗は、非常に暴れん坊であったとされています。

葛野藩主となる

元禄10年(1697年)14歳にして葛野藩主となりました。葛野藩主は現在の福井県丹生郡越前町にあった藩でしたが、徳川吉宗は和歌山から家臣を送っただけで、自身は和歌山城下に留まりました。

和歌山城画像出典:Wikipedia

 

紀州藩主となる

宝永2年(1705年)長兄の徳川綱教が亡くなります。そのため三兄の徳川頼職が紀州藩を継ぐこととなりました。

しかし、同じ年に父・徳川光貞、紀州藩の藩主となった三兄の徳川頼職が立て続けに亡くなったため、四男であった徳川吉宗が22歳にして紀州徳川家第5代藩主に就任することとなります。

理子女王を正室に迎えるも

翌年、徳川吉宗は二品親王伏見宮貞致親王の王女・真宮理子女王(理子女王)を正室に迎えました。

2人は子供を授かることができましたが、宝永7年(1710年)5月27日、死産となります。

それに加え、正室・真宮理子女王は産後の肥立ちが悪く6月4日に亡くなってしまいました。

藩政改革に努める

宝永7年(1710年)4月、紀州藩当主となり、紀州に入った徳川吉宗は藩政改革を行います。

幕政改革では主に

  • 質素倹約を徹底し財政再建を図る
  • 藩札の停止
  • 和歌山城大手門前に訴訟箱を設置

などを行いました。

徳川幕府第8代将軍に就任

紀州藩主を10年6か月務めた徳川吉宗は、享保元年(1716年)徳川幕府第8代将軍に就任します。

徳川幕府第7代将軍・徳川家継が8歳で亡くなり、徳川将軍家の血筋が途絶えたため、徳川御三家の中から、徳川吉宗が就任することとなったと一般的に考えられています。

実際には徳川将軍家の男系子孫である松平清武とその子・松平清方が将軍となることができましたが、他家に養子に出ていた、高齢であったことから選考対象から外されたのでした。

これまで、将軍となった5代将軍・徳川綱吉、6代将軍・徳川家宣は将軍に就任し江戸城に呼ばれると、廃藩・絶家されていました。

しかし、徳川吉宗は紀州藩を徳川家

康から拝領した聖地であるとし廃藩することはありませんでした。

紀州藩での経験を生かし、徳川吉宗は

  • 財政再建
  • 新田開発の推進
  • 公事方御定書の制定

享保の改革と呼ばれる改革の他に大奥の整備目安箱の設置などをすすめました。

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大奥を解雇

中でも注目されるのは大奥の整備です。

徳川吉宗は非常に節約上手な人でした。肌着は木綿のものと決め、平日の食事は一汁一菜、また1日の食事は朝と昼のみと節約に努めていました。

その性格は政策にも表れ、無駄遣いを無くし幕府の財政再建をすすめます。

突然の解雇

 

千代田之大奥 歌合 橋本(楊洲)周延画画像出典:Wikipedia

将軍家の子供や正室・側室、奥女中などがいる場所のことを大奥といいます。

江戸城内にあった大奥にはたくさんの女性が住んでいましたが、その費用は徳川幕府が負担していました。しかし、その負担は大きく、無駄遣いを無くし幕府の財政再建をすすめる徳川吉宗は、大奥の整備をはじめます。

大奥を訪れた徳川吉宗は

徳川吉宗
この中から美女を50人ほど集めておけ。

と命令します。

当時、徳川吉宗は正室を亡くしていたため、この命令を聞いた大奥の女性たちは「この中から側室が選ばれるかも!?」と舞い上がったことでしょう。

しかし、徳川吉宗は美女50人に対し

徳川吉宗
美しい美貌の持ち主なら、すぐに嫁に行けるだろうから、暇をとらす。

というのです。美女たちは急に解雇されることとなったのでした。

美女であれば、大奥にいなくても幸せな人生を送れると考えたのかもしれません。

また徳川吉宗はその50人の女性たちのお世話をしていた女中約1000人から2000人も解雇したとされています。当時4000人いた大奥は1300人まで減員されることとなりました。

 

将軍職を譲るも実権を握り続ける

延享2年(1745年)9月25日、徳川吉宗は長男・徳川家重に将軍職を譲ります。しかし、長男・家重は言語障害のようなものがあり、政務を執れるような状態ではありませんでした。そのため、徳川吉宗は自分が亡くなるまで、実権を握ることとなります。

病弱な徳川家重に代わり二男・宗武や四男・宗尹に将軍職を譲るという形もありましたが、徳川吉宗は兄弟間での後継者争いを避けるため、あえて長男である家重を将軍にさせたとされています。

 

脳卒中をおこし最期を迎える

延享3年(1746年)徳川吉宗は脳卒中を患い、それによって右半身麻痺と言語障害の後遺症が残ります。

右半身が麻痺したため、朝鮮通信使が来日した際、江戸城に「だらだらばし」と呼ばれるスロープ・横木付きのバリアフリーを設置しました。

またリハビリにも励み、江戸城の西の丸から本丸まで歩ける程に回復していたとされています。

寛延4年(1751年)6月20日、再び脳卒中を起こし、68歳で亡くなりました。

 

徳川吉宗の子供たち

徳川吉宗には5人の子供と、2人の養子がいました。

長男・徳川家重

正徳元年(1712年)12月21日、徳川吉宗とその側室・深徳院から徳川家重は誕生しました。

脳性麻痺による言語障害を持っていたとされていますが、江戸幕府第9代将軍となりました。

徳川家重画像出典:Wikipedia

 

次男・徳川宗武

正徳5年(1716年)12月27日、徳川宗武は誕生しました。母は側室の本徳院です。

兄の徳川家重は言語障害を持っていたため、将軍就任に反対する者が多くいました。弟である徳川宗武や徳川宗尹に継がせるべきだという意見もあったとされています。

徳川宗武自身も将軍就任に意欲を見せていたため、兄である徳川家重の欠点などをあげていたとされています。兄・徳川家重が将軍に就任すると、父・徳川吉宗から徳川宗武は咎められ、延享4年(1747年)から3年間、謹慎処分を受けることとなりました。

徳川宗武画像出典:Wikipedia

 

三男・源三

三男・源三は享保4年(1719年)に誕生しました。母は側室の深心院です。

産まれて間のなく、亡くなりました。

 

四男・徳川宗尹

享保6年閏7月16日、徳川宗尹は誕生しました。母は側室の深心院です。

鷹狩りや陶芸、染色など様々な趣味を楽しんでいたとされています。お菓子を手作りした際には、父の徳川吉宗や兄・徳川家重にプレゼントしていたとされています。

徳川宗尹画像出典:Wikipedia

 

長女・芳姫

享保6年(1721年)に芳姫は誕生しました。母は側室の覚樹院です。

翌年の享保7年(1722年)に亡くなりました。

 

徳川吉宗は女好きだった?

徳川吉宗には正室1人、側室6人がいたとされています。

しかし、このほかにも多くの女性を妻としていたと考えられています。

正室・理子女王没後、正室を迎えなかった

徳川吉宗の正室となった理子女王は元禄4年(1691年)8月18日に誕生しました。徳川吉宗よりも7歳上の女性です。

宝永3年(1706年)京都から江戸に降嫁し、赤坂の紀州藩邸で徳川吉宗と婚姻しました。

2人は子供を授かりましたが宝永7年(1710年)5月27日に死産となり、理子女王はその後産後の肥立ちが悪く亡くなりました。以降、徳川吉宗は2度と正室を迎えませんでした。

なぜその後、正室を迎えなかったのかはわかっていません。

 

6人の側室

徳川吉宗には側室が6人いたとされています。

 

側室①:深徳院(徳川家重の母)

深徳院は元禄元年(1688年)に誕生した女性です。

徳川吉宗の側室となり正徳元年(1711年)12月21日、長男・徳川家重を生みました。その後、正徳3年(1713年)にも妊娠しましたが、同年10月24日、難産のため母子共に亡くなりました。26歳で亡くなったとされています。

現在は難産で命を落とすということは滅多にありませんが、昔の出産は本当に命がけでした。

 

側室②:深心院(徳川宗尹の母)

元禄13年(1700年)深心院は誕生しました。

元禄17年(1704年)3月、和歌山城で徳川吉宗の母・浄円院の女中として働き始めます。その後、紀州藩の藩主となった徳川吉宗から気に入られ徳川吉宗の側室となりました。

徳川吉宗が徳川幕府の将軍となると、紀州藩から江戸城大奥へと移ります。享保4年(1719年)には徳川吉宗との間にできた源三を出産しますが、幼くして源三は亡くなりました。

その後、享保6年(1721年)に徳川宗尹を出産します。しかし、深心院は同年、22歳にして病気で亡くなりました。

 

側室③:本徳院(徳川宗武の母)

本徳院は元禄9年(1696年)に誕生しました。

正徳3年(1713年)徳川吉宗の側室であった深徳院(徳川家重の生母)が亡くなると、深心院の又従姉妹であったことから本徳院は徳川吉宗の側室となりました。

 

不細工な女性だった?

あまり本徳院は容姿が良い方ではなく、『徳川実紀』によると、本徳院のもとを訪れた徳川吉宗の家臣は

徳川吉宗の家臣
枕席に侍らすべきさまにあらず(御寝所に付き添わせるには、相応しくない女性だ)

と心配していたとされています。それほど、不細工な女性でした。

しかし、2人の間に子供が授かり、正徳5年(1715年)徳川宗武が誕生しました。

享保元年(1716年)徳川吉宗が将軍に就任すると、同じく側室の深心院(徳川宗尹の母)とともに江戸城大奥へと入りました。

その後、享保8年(1723年)2月21日、28歳で亡くなりました。

 

側室④:覚樹院

覚樹院は元禄10年(1697年)に紀州藩士稲葉定清の娘として誕生した女性です。俗名は久免といいます。

徳川吉宗が徳川幕府将軍に就任後、徳川吉宗の側室であった深心院、本徳院が立て続けに亡くなりました。

そのため和歌山城で徳川吉宗の生母・浄円院を世話していた覚樹院が徳川吉宗の側室として迎えられることとなります。

享保6年(1721年)徳川吉宗との間に娘・芳姫が誕生しましたが、翌年に亡くなります。

寛延4年(1751年)徳川吉宗の死後は出家し、安永6年(1777年)11月28日、81歳で亡くなりました。

 

そのほかにも、おさめお咲と呼ばれる女性が側室となりました。

 

養子として迎えた竹姫

宝永2年2月19日(1705年)に竹姫は誕生しました。

竹姫の父・熈定の妹・寿光院は徳川幕府5代将軍・徳川綱吉の側室となりましたが、子供に恵まれませんでした。そのため甥である竹姫を自身の養女としようと考えます。

宝永5年(1708年)、寿光院の養女となった竹姫は江戸城北の丸に迎えられ育てられました。

その後、同年5年7月に会津藩主・松平正容の松平久千代と婚約しますが、久千代は同年12月に亡くなってしまいました。

次に宝永7年(1710年)有栖川宮正仁親王と婚約するも、享保元年(1716年)有栖川宮正仁親王は亡くなります。

当時、将軍であった徳川吉宗は正室を亡くしたばかりでした。そこで立て続けに夫を亡くした竹姫を継室にしようと考えます。

徳川吉宗
竹姫を妻にしたいなあ…

しかし、竹姫は5代将軍・徳川綱吉の養女で、徳川吉宗にとって大叔母にあたるため、大奥の首座であった天英院は

天英院
人倫にもとること甚だしい!

と婚姻を反対しました。

そのためこの縁談は無くなったのです。

 

竹姫の嫁ぎ先を探す

縁談を反対された徳川吉宗は竹姫を自身の養女とすると、竹姫の嫁ぎ先を探し始めます

しかし、2度も婚約者が亡くなっているのはおかしい、実は徳川吉宗と男女関係であるのでは?などの噂があがり、竹姫の嫁ぎ先はなかなか見つかりませんでした。

 

薩摩藩主・島津継豊に嫁ぐ

享保14年(1729年)ようやく竹姫の嫁ぎ先が見つかります。

嫁ぎ先となったのは薩摩藩主・島津継豊でした。しかし、将軍の養女が嫁いでくるとなれば、嫁ぎ先の島津家は多くの経済的・精神的負担を抱えることとなります。そのため島津家は竹姫が嫁いでくることをあまり喜べなかったのです。

そんな状況を知りながらも竹姫を徳川吉宗は嫁に出しました。また竹姫の結婚相手となった島津継豊に対し、徳川吉宗は

  • 竹姫の住まいとして6890坪を無償で与える
  • 従四位上中将に昇進させる
  • 玉川上水と呼ばれる江戸市中に供給されていた飲料水となる上水を薩摩藩邸に分水することを許す

など特別な扱いをしました。

夫となった島津継豊は隠居し、江戸から鹿児島に帰国しましたが、竹姫はそのまま江戸に残りました。

江戸に残った竹姫は宝暦10年(1760年)9月20日に島津継豊が亡くなるまで、島津継豊と再会しなかったとされ、長く別居生活を送りました。

竹姫は島津家に嫁いでから44年間、徳川家と島津家の関係性強化に務めました。

 

まとめ

江戸幕府8代将軍・徳川吉宗の生い立ちや妻(正室・側室)、大奥の整備についてご紹介いたしました。

徳川吉宗には正室1人、側室6人がいたとされていますが、それよりも多くの妻がいたのでは?と考えられています。

非常に倹約家であったとされ、大奥の女性を解雇し幕府の財政を改善させようとしました。美女であれば、大奥でなくても生きていけるだろうといった考えで解雇を言い渡したとされています。

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