【新田義貞】とは何をした人?「鎌倉攻め」の伝説もわかりやすく説明

鎌倉幕府倒幕に大きな役割を果たした新田義貞。彼は、鎌倉攻めで北条一族を滅ぼしました。鎌倉は攻めにくく、守りやすい地形をしていますが、義貞は稲村ヶ崎で戦いを一気に決める行動をします。鎌倉を攻略し、後醍醐天皇にとって主要な武将となった新田義貞が鎌倉で作った伝説とは?どこで亡くなり、お墓はどこにあるのでしょうか?そして同時期に活躍した楠木正成、足利尊氏との関係についても解説します。

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新田義貞と足利尊氏

新田義貞の新田氏は、足利尊氏の足利氏と並んで東国武士では中心的な武家でした。しかし新田氏は足利氏の部下、という位置づけで、幕府の中では地位も低く、日の目を見ない一族でした。鎌倉幕府への不満がたまっていた時期、全国の武士は足利尊氏の動きには注目していましたが、新田義貞は全く注意を払われない武士だったのです。

 

狩野探幽による新田義貞肖像画

出典:Wikipedia

楠木正成と戦う

後醍醐天皇が倒幕の兵を挙げ、各地で倒幕の挙兵が相次いでいた時期に、新田義貞は楠木正成の立てこもる千早城を幕府軍の一員として攻撃しています。この合戦の間、義貞軍はそれほど積極的な攻撃をしていません。のらりくらりと合戦に参加し、ついには合戦の途中、義貞は病と称して、本拠地に帰ってしまいます。

幕府軍が散々悩まされ、大きな被害を受けたこの合戦で、義貞軍は被害を最小限に食い止めて、東国の本拠地に帰還します。そしてついに群馬県の生品神社で鎌倉幕府倒幕の挙兵をします。

挙兵後ほどなくして、鎌倉を脱出してきた足利尊氏の長男千寿王(後の足利義詮)の軍勢と合流しています。このことから、京の六波羅を攻撃した足利尊氏と連携があったのではないかと考えられています。

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鎌倉攻め

鎌倉目指して進軍する義貞軍は、小手指原の戦い、久米川の戦い、分倍河原の戦いで、幕府軍と激戦を繰り広げます。分倍河原の戦いで敗れた義貞軍は、三浦一族の合流によって勢いを取り戻します。その頃には京都の六波羅探題が足利尊氏によって滅ぼされたという知らせが入り、士気は高まります。

難攻不落の鎌倉

関戸の戦いで幕府軍に大勝した義貞軍は、鎌倉を目指します。退却した幕府軍は鎌倉にこもり、籠城戦を挑みます。鎌倉は四方を山と海に囲まれた、攻めにくく守りやすい地形です。鎌倉に入るには切り通しという道を通らなくてはなりません。切り通しは下の写真にあるように、山や丘を切り開いた道で、幅は狭く、少数の軍勢で守備できます。

丘を掘削して作られた切り通し

出典:Wikipedia

当時の鎌倉は、外の地域と7つの切り通しでつながっていました。つまり、この7つの切り通しに兵を配置すれば、鎌倉に入ってくる敵を防ぐことができたのです。

稲村ヶ崎の突破口

義貞軍は鎌倉の地形に苦戦します。なかなか鎌倉に突入できず、時間だけが過ぎます。義貞は、切り通し突破に頼らず、海岸線から攻め込むことを考えます。稲村ヶ崎を通って鎌倉突入をするため、海岸に軍勢を終結させますが、沖には幕府の軍船があり、浅瀬を渡ろうとすると矢が飛んでくるため突破ができません。

義貞は、ここで黄金の太刀を海に投げ入れます。そうすると潮が引いていき、それに伴って軍船が遠くなったので、一気に軍勢を鎌倉に突入させることができた、という伝説があります。実際は、干潮の時間となり、潮が引いたので砂浜があらわれた、と言われています。幕府の矢の射程距離から逃れることができた義貞軍は稲村ヶ崎から鎌倉に突入し、合戦の帰趨は決します。

こうして鎌倉幕府は滅亡し、後醍醐天皇による建武の新政が始まります。しかし、これは新しい対立の始まりでした。

足利尊氏との対立

鎌倉攻略後、義貞のもとに、一連の戦いでの手柄を認めてもらう書状が各地の武士から届きます。
武士達はこの認めがないと褒美がもらえません。それに対する対応、北条の残党との戦いに義貞は多忙な毎日を送ります。

しかし、あるときにぱったりと武士からの書状が来なくなります。それは、京の後醍醐天皇が褒美を出し始めたことと、京都に足利尊氏がいたからです。新田家は足利家の部下という位置づけでしたし、もともと位の高かった尊氏の口添えがあった方が褒美をもらいやすいと武士達は考えました。

焦った義貞は京に向かいます。そうすると鎌倉は千寿王を忠臣とした足利勢が押さえることとなりました。鎌倉を足利が押さえたことによって、この後足利氏は後醍醐天皇方に対して有利な立場になるのです。こうして 新田義貞と足利尊氏の対立が少しずつ表面化していきます

足利尊氏との戦い

京に入った義貞は、鎌倉攻略の功により出世をします。しかし、尊氏はそれ以上に出世していきました。そして建武の新政に不満を持つ武士達に支持された尊氏は後醍醐天皇に対して挙兵します。義貞は後醍醐天皇軍の総大将として、楠木正成と共に尊氏と戦います。

楠木正成の死

南朝の後醍醐天皇方は、新田義貞、楠木正成、北畠親房、顕家親子が中心となり、全国で北朝の足利方と戦います。当初は互角の戦いをしていた南朝方でしたが、湊川の戦いで楠木正成が戦死した頃から徐々に苦しい展開になります。その苦しい中で、後醍醐天皇と周囲の貴族は新田義貞に相談せずに足利尊氏との和平交渉を始めます。これに怒る新田義貞ですが、方針は変わらず、後醍醐天皇方は、天皇に直接従う勢力と、新田義貞らと北陸へ向かう勢力に分裂します。結局和平交渉はうまくいかず、戦いが続きます。

この経緯は、「太平記」にのみ見られる記述で、同じ時代の歴史を記した「梅松論」には出てきません。歴史上の真実かどうかはまだ議論中です。しかし、近畿地方の後醍醐天皇勢力が2つに分かれたことは事実です。これは意見の相違で分かれたという太平記の説と、北陸地方に義貞を送り、南朝の拠点にしようとしたのではないかという説があります。

南朝方の迷走

劣勢に立たされた南朝は、北陸の義貞と、伊勢の北畠親子の連携を目指しますが、不調に終わります。石津の戦い(大阪府)で、北畠顕家が戦死すると、北陸はさらに劣勢に追い込まれます。そして北陸の北朝方の斯波氏は配下の武士を使って義貞を追い込みます。その義貞に援軍を送る余裕はなく、北陸の義貞は孤軍で戦い続けます。

義貞の最後

そして義貞は、藤島の戦いでついに戦死します。義貞の軍勢は水田に追い込まれ、身動きが取れなくなったところを弓矢で攻撃され、なすすべがなかったと伝わっています。義貞の首は京都に送られ、南朝はついに義貞を失います。南朝にとって、決定的な打撃でした。

義貞の死は、様々な方面から批判されます。矢を防ぐ盾も持たずに出陣したこと、自ら出陣する必要があったかどうかわからない藤島城攻略にこだわったこと。しかし、それだけ南朝方が焦っていたという解釈も成り立ちます。何とかして北陸の戦況を好転させようと、自ら陣頭指揮を執ったとも言われます。

新田義貞の墓

江戸時代、藤島の戦いがあったあたりを耕作していた農民が兜を発見し、越前藩主松平光通に献上しました。軍学者の鑑定の結果、新田義貞の兜と鑑定され、光通は兜が見つかった地に塚を作り、「新田塚」とします。その後、その塚が祠となり、今では藤島神社として義貞を祭っています。また、墓所は福井県坂井市の称念寺にあります。

まとめ

新田義貞の死は、新田氏と足利氏の武家の棟梁争いに決着をつける出来事でした。義貞の死によって、足利氏は武家の棟梁の地位を確立し、その後は足利氏の身内で主導権を争うことになります。南朝に味方をし続けた新田家は、北朝が主流となった時期は「朝敵」とされていましたが、明治維新以降は楠木正成と同様に、「忠臣」と言われるようになりました。

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