キリスト教 伝来の立役者【フランシスコザビエル】来日のエピソードや死因について調べてみました

戦国時代にあたる天文18年(1549年)8月15日、イエズス会宣教師のフランシスコザビエルが初めて日本に来日しました。

鹿児島に来日したフランシスコザビエルは領主であった島津貫久の許可を得てキリスト教の布教活動を行うも、キリスト教の布教に対し危機感を覚えた領主・島津貫久はフランシスコザビエルに対し布教活動をやめるよう要求します。

そのためフランシスコザビエルは布教活動を京都の地で行おうと上洛を果たすも失敗に終わり、戻った山口で再び布教活動を行い、約2か月間の間に500人余りの信者を持つこととなりました。

約2年間日本に滞在したフランシスコザビエルは天文20年(1551年)4人の日本人キリスト教信者を連れ、種子島、上川島(中国)を経てインドのゴアへと向かうも翌年の12月3日、ゴアから中国へと向かう最中、46歳で亡くなりました。

死因は病気であったとされています。

多くの方が学校の授業で学んだであろうフランシスコザビエルは日本史を語るうえで欠かせない人物です。

今回はそんなフランシスコザビエルの生い立ちや日本に来日した理由、鉄砲との関係性、死因についてご紹介します。

フランシスコザビエルの生い立ち

フランシスコザビエルは1506年4月7日、北スペインナバラ王国の貴族のドン・フアン・デ・ハッソの末っ子としてハビエル城で誕生しました。

ハビエル城

ハビエル城の写真画像:Wikipedia

実はフランシスコザビエルという名前は本名ではなく、本名は「フランシスコ・ジャッコア・アスピルクエタ・イ・エチェベリア」とされています。

フランシスコザビエルが誕生したナバラ王国は当時、非常に小さな国でした。しかしフランシスコザビエルが9歳となった1515年頃にスペインとフランスの紛争地域となってしまい、結果スペインに統合されます。

この頃に父を亡くしたとされフランシスコザビエルは母親や兄弟たちと紛争の中で生活することを強いられました。

聖職者を志す

19歳となった1525年、フランシスコザビエルは名門であるパリ大学へと留学した後、聖バルブ学院に入り自由学芸を専攻しました。

この頃に

  • 哲学を学んでいたフランス出身のピエール・ファーヴル
  • バスク地方出身のイグナチオ・デ・ロヨラ

と交流を持ちました。

1529年、母のマリアが亡くなると、その4年後にはガンディアの女子修道院長を務めていた姉も亡くなります。

この頃フランシスコザビエルは先行している哲学コースの最終過程に入っていましたが、イグナチオ・デ・ロヨラから影響を受け、聖職者を志すようになりました。

イエズス会の始まり

1534年8月15日、イグナチオ・デ・ロヨラを中心に

  • フランシスコザビエル
  • ファーブル
  • シモン・ロドリゲス
  • ディエゴ・ライネス
  • ニコラス・ボバディリャ
  • アルフォンソ・サルメロン

計7人の青年たちはモンマルトルの聖堂において神に生涯を捧げるといった「モンマルトルの誓い」を行いました。

この「モンマルトルの誓い」がイエズス会の始まりとされています。

フランシスコザビエルらによって創立されたイエズス会は叙階許可が与えられ1537年6月、正式にフランシスコザビエルらは司祭に叙階されることとなりました。

日本人・ヤジロウとの出会い

イエズス会は世界各地で布教活動を行うといった目的を掲げており、フランシスコザビエルは

  • ミセル・パウロ
  • フランシスコ・マンシリアス
  • ディエゴ・フェルナンデス

とともにインド西海岸のゴアでキリスト教の布教活動を行うため1541年4月7日、リスボンを発ちました。

1542年5月にゴアに到着したフランシスコザビエルらはゴアを拠点とし布教活動を開始し

  • 1545年9月にはマラッカ
  • 1546年1月にはモルッカ諸島

でキリスト教信者を増やしました。

その後、マラッカへと戻ったフランシスコザビエルらは1547年12月に鹿児島出身のヤジロウと呼ばれる日本人男性と出会います

その際、ヤジロウはキリスト教の洗礼を受けたとされています。

日本を目指す

1548年11月、ゴアの宣教師となったフランシスコザビエルは翌年の4月15日、日本での宣教活動を行うため

  • イエズス会士コスメ・デ・トーレス神父
  • フアン・フェルナンデス修道士
  • マヌエル(中国人)
  • アマドール(インド人)
  • ヤジロウ(日本人)
  • 他2人の日本人

を連れ上川島(中国)を経て日本を目指しました。

フランシスコザビエルの来日

こうして天文18年(1549年)8月15日、フランシスコザビエルら一行は現在の鹿児島市祇園之洲町に初めて来日したのでした。

来日したフランシスコザビエルは同年9月、薩摩国の守護大名である島津貴久からキリスト教の宣教活動の許しを得ると、この地で布教活動を始めます。

島津貴久

島津貴久の肖像画出典画像:Wikipedia

しかし、1度宣教活動を許した島津貫久でしたが、僧侶の助言からキリスト教の宣教活動の禁止しました。

島津貫久
1度、布教活動を許したけど、やっぱり布教活動は禁止します!

そのためフランシスコザビエルらは上洛を目的とし薩摩国を去ることとなりました。

守護大名・大内義隆がキリスト教の宣教活動に対し反対

天文19年(1550年)8月、薩摩国を出たフランシスコザビエルらは肥前国平戸に入り宣教活動を始めます。

同年10月下旬になるとフランシスコザビエルはトーレス神父に信者の世話を任せ、ベルナルド、フェルナンデスとともに京都を目指しました。

11月上旬に周防国山口に入ったフランシスコザビエルらは無許可でキリスト教の宣教活動を行うも、許可なしで宣教活動を行うのは良くないと、周防の守護大名・大内義隆に宣教活動の許しを請います。

大内義隆

大内義隆の肖像画出典画像:Wikipedia

しかし、周防の守護大名・大内義隆はキリスト教で禁じられている男色の教えに不満を抱き、キリスト教の宣教活動の許しは得られず、フランシスコザビエルらは同年12月17日に周防を発つのでした。

男色とは男性同性愛を指す言葉です。日本では男色は認められていましたが、キリスト教は同性愛に対し否定的な考えを持っていました。

後奈良天皇、征夷大将軍・足利義輝への拝謁

天文20(1551年)1月、京都についたフランシスコザビエルらは小西隆佐から歓迎を受けます。

フランシスコザビエルらは日本各地での宣教活動の許しを得るため「日本国王」である後奈良天皇、征夷大将軍・足利義輝への拝謁を請願しました。

しかし、持ち合わせていた献上品が少ないといった理由から拝謁は認められず、また比叡山の僧侶と論戦をしたいと考えていたフランシスコザビエルでしたがこれも認められず、京都での滞在は難しいと考えたフランシスコザビエルらは同年3月に平戸へと戻るのでした。

フランシスコザビエル
仕方ない、平戸に戻るか

守護大名・大内義隆から宣教活動の許しを得る

平戸へと戻ったフランシスコザビエルらはキリスト教の宣教活動を禁じた守護大名・大内義隆に再び謁見します。

この際多くの献上品を用意したとされ、その中には

  • もともと天皇に献上しようと考えていたインド総督とゴア司教の親書
  • 望遠鏡
  • 洋琴
  • 置時計
  • 水差し
  • 眼鏡
  • 書籍
  • 絵画
  • 小銃

などがあったとされています。

ちなみに初めてフランシスコザビエルが日本に眼鏡を持ち込んだとされています。

これらの献上品に対し大内義隆は非常に喜んだとされ、これによってフランシスコザビエルらの宣教活動を許可したのでした。

大内義隆
素晴らしい献上品だ!キリスト教の宣教活動を許可します!

それだけではなく大内義隆はフランシスコザビエルらに当時廃寺となっていた大道寺を住居兼教会として与えました。この大道寺は日本で初めての常設の教会堂とされています。

フランシスコザビエルはこの大道寺で1日に2回の説教を行い、約2か月で500人の信者を得ることに成功しました。

守護大名・大友義鎮(後の宗麟)の保護のもとで宣教活動を行う

現在の大分県大分市である豊後国府内にポルトガル船が来着します。

この話を聞きつけたフランシスコザビエルは山口での宣教活動をトーレスに任せ豊後国へと向かいました。

天文20年(1551年)9月、豊後国に到着したフランシスコザビエルは守護大名・大友義鎮(後の宗麟)の歓迎を受け、守護大名・大友義鎮(後の宗麟)の保護のもとでキリスト教の宣教活動を行います。

大友義鎮(後の宗麟)

大友義鎮の肖像画出典画像:Wikipedia

種子島、上川島(中国)を経てインドへと戻る

約2年もの間日本でキリスト教の宣教活動を行っていましたが、この間、インドからの連絡はなくフランシスコザビエルはこれを不安に思うと、同年11月15日、4人の日本人信者を連れてインドへと向かいました。

種子島、上川島(中国)を経て2月15日にインドのゴアに到着したフランシスコザビエルは2人の日本人信者(ベルナルドとマテオ)を司祭の養成学校である聖パウロ学院に入学させました。

ちなみにベルナルドは学問を修めヨーロッパへと渡った最初の日本人とされています。

中国での宣教活動

この頃になると、フランシスコザビエルは日本で宣教活動を行うには日本の文化に大きく影響をもたらすことのできる中国の存在が必要不可欠であると考え始めました。

そのため、フランシスコザビエルは中国での宣教活動を目的とし、1552年4月、バルタザル・ガーゴ神父を自身の代わりに日本に派遣した後、自らは中国へと向かいます。

フランシスコザビエル
中国での宣教活動が必要だ!

フランシスコザビエルの最期と死因

しかし、その道中、フランシスコザビエルは病に倒れえることとなり12月3日、中国の上川島で亡くなりました。

詳しい死因は分かっていませんが病気によって46歳で亡くなったとされています。

鉄砲やキリスト教などの伝来の窓口となった鹿児島

フランシスコザビエルが日本に来日したのは天文18年(1549年)8月15日のことです。この時、フランシスコザビエルらが初めて日本の地を踏んだのは現在の鹿児島市祇園之洲町です。

フランシスコザビエルらが来日する6年前の天文12年(1543年)種子島にポルトガル人を乗せた中国船が来日しました。

この時、種子島の領主であった種子島時堯は鉄砲を入手したとされています。

鉄砲の写真出典画像:Wikipedia

その後、鉄砲は日本各地に伝えられ、これまで刀や弓が主に使用されていた戦において鉄砲が用いられるようになりました。

鉄砲を用いた主な戦は天文24年(1555年)におきた第二次川中島の戦い、天正3年(1575年)長篠の戦いなどがあげられます。

鹿児島県から伝来されたキリスト教や鉄砲といったヨーロッパ文化は、瞬く間に日本各地に広がっていくこととなりました。

キリスト教のその後

日本におけるキリスト教信者はその後も増え続けました。しかし、天正15年(1587年)、キリスト教の布教に危機感を覚えた豊臣秀吉はキリスト教を制限し始めます。

豊臣秀吉の肖像画出典画像:Wikipedia

それでも宣教活動が減ることはなかったので、バテレン追放令が出されました。

日本ではキリスト教の弾圧活動が活発化し、江戸幕府3代将軍・徳川家光の時代、ついにキリスト教国人と日本人の接触を避けようと、キリスト教国人を収容するための出島が長崎に建設されました。

その後も日本は異国との接触を避ける鎖国を約200年もの間続けることとなりますが、嘉永6年(1853年)ペリーが来航し日本との間で「日米和親条約」が結ばれ、安政5年(1858年)にハリスと大老の井伊直弼との間で「日米修好通商条約」が結ばれ、これによって長く続いた鎖国は幕を閉じました。

まとめ

フランシスコザビエルは日本史を語るうえで欠かせない人物でした。

フランシスコザビエルが伝えたキリスト教はフランシスコザビエル亡き後、日本において長い間、弾圧されることとなります。

約200年にも及ぶ鎖国の中でキリスト教信者の人々はどのような思いを抱き、信仰を続けていたのでしょうか。

少し考えてみる必要があるかもしれませんね。

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