古墳時代に即位した仁徳天皇は、日本最大の前方後円墳に埋葬されています。仁徳天皇は民衆にとても慕われていました。その伝説が「民のかまど」と呼ばれ逸話になっています。
仁徳天皇が最大の古墳に埋葬されたのも、仁徳天皇の政治政策と関わっています。こんなに民衆から慕われた仁徳天皇はどんな人物なのか、またどのような政治を行ったのか紹介します。
目次
仁徳天皇の生い立ち

- 西歴290年に応神天皇の第4皇子として誕生します。母親は仲姫命です。
- 当時の名前は、 大鷦鷯尊 です。
- 1月3日 第16代天皇に即位します。
- 皇后は磐之姫命です。
- 即位後は都を 難波 に遷都します。皇居は難波高津宮にしました。
- 西暦399年2月7日に83歳で亡くなります。
- 埋葬場所は 百鳥舌耳原中陵の日本最大の前方後円墳 です。
皇位継承を兄弟と譲り合う

応神天皇が亡くなってから、次の天皇が決まるまで3年かかっています。応神天皇の皇位継承に有力だったのは、兄弟の菟道稚郎子でしたが、菟道稚郎子と大鷦鷯尊(後に仁徳天皇)は互いに皇位継承を譲り合います。そして、菟道稚郎子は亡くなってしまい大鷦鷯尊が皇位継承し、天皇に即位します。
そんな事があり、皇位継承に時間がかかってしまいます。その期間は3年間は、天皇が不在であった為、政治は混乱して世の中は荒れてしまいました。
仁徳天皇が民のために行った政策
仁徳天皇の逸話「民のかまど」
仁徳天皇の出来事で、語り継がれている有名な 「民のかまど」 という逸話があります。
それは、仁徳天皇が宮殿の高いところから民の暮らしを眺めていたところ、夕方の時間なのに、民のかまどから炊飯の為の煙が立っていないことに気づきます。仁徳天皇は、民は炊くお米が無いから煙が立っていないのだと、食べ物が無く困っている民を救おうとします。
仁徳天皇が民の貧困を救う為に、3年間の課税の免除と労役の停止をします。仁徳天皇自らも倹約に励み、宮殿の屋根など穴が空いて水漏れをしても、修繕せず耐えたり、服装も古着のまま過ごしたりしていました。その後、3年延長して合計6年間、課税免除と労役を停止しました。
その結果、民は食糧を確保し、衣服も整える事が出来るようになり、民のかまどから煙が立つようになります。

大規模な開墾工事
仁徳天皇が行った政策は、大規模な開墾工事をしました。国民が食べ物が豊富にあり、豊かでいるには、沢山の食べ物が必要となります。その為には、農作物が作る畑やお米を作る水田を広げていかなければなりません。仁徳天皇は、次々と広く荒れた土地を開墾し、水田や畑を増やしていきます。また、米が作りやすいようにと、川から水路を造り、田んぼに水を引けるように大規模な工事をしました。そして用水路を作るので川が氾濫した場合に備え、堤防も建てました。仁徳天皇は民の生活を守るために、大規模な政策を行いました。

これが仁徳天皇の信念であり、国民からは深く感謝されるようになります。
民から仁徳天皇への恩返し
仁徳天皇は、国民の為に自らも倹約されていました。課税免除や労役の停止が終わると、民は仁徳天皇に恩を返そうと、皇宮の修繕を行いました。誰に命令された訳ではなく、民自らが皇宮に集まり、仁徳天皇の為に尽くしたいと昼夜通して修理し、すぐに皇宮は綺麗になりました。
仁徳天皇、日本最大の前方後円墳に埋葬される
古墳が出来た理由

仁徳天皇は、大規模な土木工事を行いました。広大な土地を開墾すると大量に不要な土砂が出てしまいます。昔は、土を運ぶのも人の手ですので、場所を決めて盛り土をします。この盛り土から出来たのが古墳です。
百舌鳥耳原中陵に仁徳天皇の陵を造る

仁徳天皇が大規模な開墾をしたおかげで、民の方は沢山の農作物や米を作れるようになり、食べ物に困る事がなくなりました。この盛り土の量は、仁徳天皇が民の為に行った工事の証です。ですので、民は仁徳天皇へ感謝の気持ちを顕し、和泉国の 百舌鳥耳原中陵に日本最大の前方後円墳を造り、仁徳天皇の陵を建てました 。そして、仁徳天皇は、民から 「聖のミカド」 と呼ばれ、敬意を称されています。
まとめ
いかがでしたか?
仁徳天皇が日本最大の前方後円墳に埋葬されたのかというと、仁徳天皇の民からの感謝の気持ちからだったという事がわかりました。仁徳天皇の「民は国の基だ。その民が富んでいるなら朕も富んでいることになる。」という精神は、とても素晴らしいと感銘を受けました。当時の民も、恩を忘れず、天皇の為に自ら奉仕する姿に、この時代は、国と民が良い関係だったのだなと思いました。
訳:高いところから町を見下ろすと、家々のかまどに炊煙が立つようになった。やっと民の暮らしも楽になってきたようだ